わたしが大学生の時分に、ローカル局で「鎌倉街道夢紀行」という十五分番組が放送されていました。
ピアニスト村松健が、鎌倉街道を歩いてたどり、旧跡を紹介するという番組です。
ただなんとなく観ていただけなのですが、(当時の)近所が映ったりして、かなり楽しみにしてはいました。
特に、村松健の手がけたBGMが素晴らしく、それが魅力の半分ほどを占めていたと言っても過言ではありませんでした。
CDは後に手に入れました。
今日、ふと図書館にて本棚を眺めていたら、たまたまこのタイトルが目に入いり、懐かしさの余り手に取ってしまいました。
パラパラとめくると、懐かしい風景が目に飛び込んで来て、当時のことがしみじみと思い出されました。
この頃ホームシック気味なので、この本を読んで癒されようかと思います。
「読書」タグアーカイブ
痴人の愛
一読してまずこう思います。
「アホやなぁ……」
いやしかしこれは、かの有名な谷崎潤一郎の作品、どこかに非常に深遠な問いかけや、高尚な苦悩が描かれているに違いないと思い直し、さらに読み進めます。
「アホやなぁ……」
おなじため息が出ました。
そうです。この作品では主人公、譲治のアホさが金太郎飴のように全面に渡って展開されているのです。
うんざりすると訴えたからと言って、黙って表題を指し示されるのみでしょう。
しかしこの本の壮大なトリックは、モノローグとして語られる、その形式にあります。そして最後の一文で引っ掛けに気付かされるのです。
この本を評して、「妖婦に取り憑かれた男の破滅の物語」とかよく言われますが、全然そんなことはありません。
これは「のろけ」です。
朝霧
円紫シリーズ最後の作品です。
わたしはこのシリーズが大好きだったので、これで終わりかと思うと読むのがなんとなく勿体無いような気持ちでした。
内容は別にして、妙に頷かされたのが、今まで一冊で一年ずつ進級していた「私」が、この本で就職をして一気に何年も年を重ねることです。
たしかに、就職をするとイベントが減って時間の経過が早く感じられますよね。そのコントラストがリアルだと感じました。
さて内容ですが、ミステリーとしてはどうなんでしょうかね……。
ここまで読んできたわたしにはキャラクターに愛着が湧いてきているので、彼女たちが何をやっても面白いのですが、この本からはじめて読んだ人にとっては「なんじゃこりゃ」ではないでしょうか?
この「なんじゃこりゃ」は今に始まったことではなく、前々作の「秋の花」から微かに臭いはじめ、前作の「六の宮の姫君」ではとんでもないところにすっとんでいったのですが、本作でも引きずってしまっているようです。
三篇構成になり、原点回帰のような雰囲気をみせてはいるのですが、巻末の解説でも言われている通り、「教養小説」になってしまって、初期の単純な謎解きの面白さから遠ざかってしまっているように感じました。
それでは、一作品目の「空飛ぶ馬」と、二作目の「夜の蝉」だけを読むようにひとに勧めるべきでしょうか?
でもわたしの忠告はきっと破られるでしょうね。だってそれだけ魅力的な文体とキャラクターたちなんですから。
生命燃ゆ
今週は珍しく体調不良でダウンしてしまい、内科へ行ってきました。
病院に足を向けた時点で、体調はほとんど回復していたのですが、大事をとって点滴をうってもらいました。
なぜそこまでする気になったのかというと、最近読んだこの本に原因があります。
高杉良の「生命燃ゆ」
大分と大慶のコンビナート建設に、文字通り命を燃やし尽くした男の物語です。
フィクションの体裁を取っていますが、実在の人物をモデルにしているそうです。
主人公の柿崎仁が実に熱い、イイ男に描かれていて、結末を知っている側から見ると「柿崎ー! 早く病院に行ってくれー!」と心の中で叫ばずにはいられません。
しかし、そんな読者の不安を嘲笑うかのように柿崎は月二百時間残業してみたり、ボランティアみたいな高専の講義を引き受けてしまったりするのでした。
彼の最後の言葉には非常に感銘をうけたので、ここに転載させてもらおうかとも思ったのですが、これからこの本を手に取ろうかという人の感動を奪いたくないので止めておきます。
男ならこうありたいものだと思う生き様でした。
今までこの手の経済ビジネス小説は読んだことがありませんでしたが、勤め人だからこそ分かることがチラホラとあり、とても面白く読めました。
読書感想
更新が一ヶ月くらい滞ってしまいましたね。
愛知に越してきて、はや三週間が過ぎました。目まぐるしく、息をつく間もない日々でした。
今になってようやく、一息ついて、サイトを更新する準備が整いました。
この間にわたしが読んだ本を紹介したいと思います。
一冊目は、山本周五郎の「青べか物語」です。
いままで何となく聞いたことのある名前だったのですが(「山本周五郎賞」などで)著作にふれたことはありませんでした。
たまたま実家の本棚にあったので、読むものが無くなったら読んでみようと思っていたのです。
内容は、山本周五郎が二十台のころに住んでいた浦粕(千葉県浦安市)での体験を記したものです。時代としては大戦前の昭和初期になります。
最初のエピソードが、不恰好な釣り船(子どもたちからは「ぶっくれ舟」と馬鹿にされている)をおじいさんに売りつけられるというものなのですが、この舟が表題になっている「青べか」です。
この時点で、「なんかまったりした話だなぁ」と思い、退屈なエピソードが続くのではないかと不安になったのですが、さにあらず、次の「蜜柑の木」からドロドロ、ぐちゃぐちゃ、「田舎って怖いね…」の世界に没入して行きました。
主に女性問題なのですが、先に赤松啓介の本などを読んでいたので、こういうことはやっぱり、どこと限らず全国的に行われてたんだなぁと、妙に納得したりもしました。
全編、狡猾、吝嗇、愚昧、好色、嘲笑的な漁民の姿を赤裸々に描いています。浦安ではなく、浦粕とぼかした気持ちも分かろうかというものです。
しかし、スキャンダラスなだけではないのです。どのエピソードからもキラリと光るものが垣間見えます。土地独特の機知に富んだ言い回しや、一見ばかばかしく思えるけれど尊い行いから。
童話のように描かれたエピソードは作者の創作でしょうか?
これらが幻想的な世界を演出し、読者に限りない郷愁を抱かせるのだと思います。
二冊目は、新幹線の中で読み始めたものですが、火野葦平の「土と兵隊・麦と兵隊」です。
これはまさに日中戦争の渦中の物語です。
「土と兵隊」では作者が一兵卒として杭州湾(上海)上陸作戦に参加し、国民軍と壮絶な戦闘を繰り広げる様が活写されています。
「麦と兵隊」では、今度は記者として従軍した作者が、戦火の中で任務にあたる様子が描かれています。
いずれも日記風の文体で、戦闘の様子などが極めて生々しいです。激しい場面になると手に汗を感じ、文面にぐっと引き込まれていくような興奮を味わいました。
わたしは先入観から、フィクション。それも戦後に書かれたものだと思っていたのですが、何をいわんや、ガチの従軍記です。
芥川賞作家が、一兵卒として従軍し、その戦いのありのままを書き残すとは、なんとういうことでしょう。
自分の命も危ういような状況で、正確なだけではなく文学としても価値のあるものを書き残したというのは、呆れるほどの才能だと思います。
まるで戦争を美化するかの様な記述がいくつか見られますが、それ以上に大変な、奇跡的な作品だと思います。
新潮カセット文庫
たまたま手元に新潮文庫100冊のCD‐ROMがあったので、暇つぶしのつもりでインストールしました。
テキストばかりではなく、朗読も何タイトルか入っていて、見てみると、前から読んでみたいと思っていた、中島敦の「山月記」が。
良い機会なので朗読とともに読んでみました。江守徹によるものです。
これがすばらしかった! 硬質な漢詩の世界と声とが実にマッチしていました。
難しい漢字がいっぱい出てくる作品でもあるので、調べなくとも良いというのも助かりました。
山月記が良かったので、ほかにも無いかと近所の図書館に探しに行くと、あります。
新潮カセットブックがずらっと揃っていました。CDではなく、カセットなのが時代ですが、我がままは言えません。
「罪と罰 上下巻」と志賀直哉の「小僧の神様・城の崎にて」を借りてきました。
先にドストの方を聴きます。これは縮約版で原作の長い長い話を二時間くらいにまとめてあります(原作ではマルメラードフの猥談がうんざりするほど長かった思い出がある)
おかげで展開が早く、スリリングな面白さを再発見できました。
江守徹の朗読は、豪快なルックスに似合わず、主人公の神経質で、線の細いキャラクターに寄り添った演技でした。
また老若男女たくさんの登場人物が出てきますが、器用に演じ分けていました。
良かったです。志賀のほうも楽しみです。
神保町
今日は本の街、神保町に行ってきました。
上京して十年くらい経ちますが、訪れるのはこれが初めてです。以前から行ってみたいなとは思っていたのですが、なんとなく、きっかけがなかったのです。
重い腰を上げたのは、須田一政の「風姿花伝」を手に入れようと決心したからです。
昭和53年に朝日ソノラマから出版されたこの本は、須田先生の初写真集ですが、すでに絶版で手に入りません。
代わりに、古本市場で高値で流通していることはネットで調べて知っていました。
ずっと手に入れたいと思ってきましたが、値段がネックとなり手が出せないでいたのです。
そこでサイトにアップされている画像を眺めて、やり過ごしていました。
しかし我慢は体に良くない。
ついに俺の金をどう使おうが俺の勝手だと、半ば逆上し、実弾(たま)をいくらか用意して、戦場に乗り込んだのです。
向かったのは白山通り沿いにある、「魚山堂」という古本屋です。
なんでも写真集を専門に取り扱っているそうです。ビデオ屋の二階という非常に分かり辛い場所にありました。
新宿の海賊版レコードショップに近い雰囲気でした。わたしが小心なせいでしょうか? 一見さんお断りの空気が濃厚に漂っているように思えました。
うなぎの寝床のような狭い店内でした。壁一面を本が覆っています。
入り口のそばにはガラスケースが置かれ、篠山紀信なんかが置かれていました。
客はわたし以外には誰もいなかったので、つかつかとレジに座っている店主のところに行って、にこれこれこういう本は無いかと尋ねました。
「ネットで見たのか?」と訊かれたので、そうだと答えると、もう売れてしまったとのこと。ガッカリ……。
しかし、ちょっと待ってと引き止められます。海外向けにストックしている在庫を調べてみると言います。おじさんはパソコンとなにやら格闘を始めました。その間、店内を興味深く眺めていました。
内藤正敏の「東京」が置いてありました。思わず手に取ります。いい写真集でした。さて、お値段は?と見てみると、二万円……でした。くわばら。
突然、背にしていた方の本棚が動き出します。びっくりしましたが、可動式の保管用書庫だそう。
その中からほうれん草色のカバーの本を取り出して来ました。ついに憧れの本との対面でした。
三十年前の本と考えれば、カバーは日焼けも少なく、よい状態でした。ぱらぱらとめくってみると、中は汚れもなく大変きれいでした。裏には白抜きで、「1800円」
「おいくらですか?」
「550ドル」
そうかあ、須田先生は海外にもファンがいらっしゃるのか。やっぱり偉大だなあ。などと思考が空回りします。
「いまのレートが92円だから」店主は電卓を叩き、「50600…、5万円でいいよ」
思わぬ円高の恩恵を受けることになりました。
放心状態で店を後にして、しばらくあてどもなく歩いてしまったのですが、今日はもう一つお目当てがあったのでした。
「風姿花伝」の翌年に出された「わが東京100」です。
次に向かったのは、岩波アネックスビル2Fに京都便利堂と一緒に入っている秦川堂書店。かなりこざっぱりとした店内でした。
レジに座るおじいさんに訊くと、店内から運んできてくれました。値段は四千円。先ほどの店に比べるとかなり常識的な値段です。これはよい買い物でした。
その後は街をぶらぶらとゆっくり見物しました。
うず高く本が積まれた店先。本当にどこにもない、独特な街でしたね。気に入りました。
次は特に理由がなくても出掛けてしまうかも。
北村薫の創作表現講義
「北村薫の創作表現講義‐あなたを読む、わたしを書く」を読みました。
この本は北村先生が05年と06年に早稲田で持った講義を文章化したものです。
去年の五月に出た本で、当時新品を買おうかどうか悩んで結局買わなかったのですが、古本屋に並んでいるのを見つけ、即手に入れました。見つけたときには、おもわず「あっ」と叫んでしまいました。
ものすごく面白かったです。この講義を直に聴けた生徒達はラッキーですね。
内容は講義形式のものや、ゲストのお話、生徒の提出したコラムとそれに対する評価の部分などが合わさっています。単なる小説の書き方にとどまらない、文芸一般にまつわるものになっています。
大切なメッセージがいっぱい詰まっているように思いました。まとめるのが難しいので、それぞれの章の中で「これは」と線を引いた部分をピックアップしてみたいと思います。
【第一章】
「何かを書こうとする時には、書きたい素材と不思議に巡り合うものです。
……ひどい夏風邪だとばかり思っていました。その時はね、待合室にいて寒くて仕方がなかった。《どうして、この病院はこんなにクーラーを利かしているんだろう》と思いました。ところが、体が良くなって来ると、同じところに行っても、何ともないんですね。《ああ、そうなのか。クーラーが利き過ぎていると思ったのは、こちらの体調のせいなのか》と分かりました。
これが、《書く》ということですよね。
つまり、《どうも体の調子が悪い》と語っても、それは白いところに白い字を書いているようなものなんです」
【第二章】
「心が自然に身構えていると、そこに何かがぶつかって、スパークすることがある。何事も、ただ漫然と見ているだけだと、それだけで終わってしまう」
【第三章】
「小説も芝居も、何かの取り扱い説明書とは違います」
【第六章】
「『英語でしゃべらナイト』という、NHKの教育番組があります。
釈(由美子)さんはね、英会話を学習するのに、勉強だけのテープを作ると楽しくないので、間に自分の好きな曲を入れていたそうです。英会話と交互になっている。間に御褒美が挟んである。そして《これが効果的だった》と、いっていたそうです。
わたしは、これを聞いてね、《ああ学習って、これだな》と思った。《どういう風にやったら》というのを、《自分で》考える。それが勉強なんですね」
【第八章】
「実際に、本当に動かされたんなら、その歌を(コラムに)引いてもらいたいよね。
『スウィングガールズ』って映画、観たんだよね。高校生が《ジャズやるべ》っていって、一所懸命、ジャズの練習をする。
そういう話だったら、どうしたって最後は、ジャズの演奏になる。それは作品が要求しちゃうんだよね。タイトルが「スウィングガールズ」で、《ジャズやるべ》っていって、ラストが散歩でもして《終》になったら、こりゃ納得できない」
【第十三章】
「よく、『真善美』といいます。その三つを取り入れると、小説としてはちょっと格好悪くなってしまうケースもないではない。でも、全部否定してしまったら、エンターテイメントじゃない。一方、《そういったものはないんだ》とはっきりいってしまうと、それはむしろ純文学の方になるのかなと思います」
【第十六章】
「素材は、個性によってつかむ。また書き方にも、個性がなければいけません」
いま「六の宮の姫君」を読んでいますが、重なる部分がたくさんあります。氏の作品を読む目が変わったかも知れません。
北村作品に興味があるならお勧めしたい一冊です。
野菊の墓
北村薫の「秋の花」の中に、主人公たちが「野菊の墓」談義に花を咲かせる場面があります。
そこで興味をそそられて手に取りました。
短い話なので、すぐに読めました。
とても悲しいお話でした。
民子が哀れということもあるのですが、政夫の母の後悔の涙に咽ぶ姿にも心を動かされずにはいられません。
電車の中で読んでいたのですが、思わず涙ぐんでしまったほどです。
しかし、これほどまでに感動的な話を正ちゃんは「自己中心的な作品」と切り捨てます。
かっ…かっこいいッ!
確かにそういう目で見れば、妙に悟ったような文章に違和感を感じなくもありません。
民さんほど彼女を想ってなかったんじゃないかとすら思えます。
月日の経過が物事を客観的に見せてくれるようになったのかも知れませんが。
そんな嫌らしさが端的に表れたのが、正ちゃん御立腹の結びの一文だと思います。