津軽

 太宰治の「津軽」を読みました。
 これは本当に面白い。電車の中で笑わないようにするのが一苦労でした。
 それにしてもよく飲む。旧友を訪ねては各地で飲み三昧です。
 そして当時の文壇のボス、志賀直哉をディスる!
 どれほど権勢を持つ者に対してもおもねらない津軽人基質をみずから示すわけですが、それが自分の首を絞めることに…。
 
 太宰といえば「人間失格」とか「斜陽」とか暗く思い話ばかり書く人なのかと思っていましたが、これほどのユーモアがあるとは、考えを改めさせられました。

楢山節考

 (ああ、表紙に思いっきり図書館のシールが…)
 
 深沢七郎の「楢山節考」を読みました。
 姥捨て山の話なのですが、その他にも嬰児殺しやら、村八分やら暗い因習濡れの寒村の生活が描写されます。
 田舎とはここまでハードなものなのか……。
 
 しかし、内容のハードさに比べて作品の雰囲気じたいはそれほど重く感じませんでした。
 ひとつはもうすぐ姥捨て山(楢山)に連れていかれる、おりんが嫌がってはいないからでしょう。むしろ積極的に楢山参りの準備をしています。
 山に捨てられて、孤独な死を迎えることが「楢山参り」というオブラートに包まれて、なんだかとても良いことのように語られているのです。
 とてもちぐはぐで、目眩を起こさせるような話ではないでしょうか。
 
 それから村民たちの訛り言葉と、そして文章のところどころに挿入される「楢山節」の素朴な味わいが印象を幾分やわらげている、ということもあります。
 作品の大きな魅力であり、村民への共感を感じさせます。
 なので作品の主題は前近代的な寒村の風習を告発することではないです。
 
 では深沢は何を言いたかったのか? なんでこんな話を書いたのか?
 正直よくわかりません。
 この本には、「楢山節考」の他に三編の作品が収められているのですが、「白鳥の死」という作品の中で、おりんにはイエスと釈迦が入っていると書いてある部分があります。
 ということは、棄老の習わしは、必ずしもイヤイヤではなく、自己犠牲の精神があったのだと言いたかったのかも知れません。
 わたしにはこの作品は、棄老が棄てる者と棄てられる者のいずれにとっても幸せであったかも知れない、という可能性を文章のうえで実験した、ように思えます。

最近読んだ本

 最近読んだ本を紹介します。
 
 「信長とフロイス」
 全十二巻からなる、フロイス日本史の第二巻です。
 
 最近、織田信長に興味が出てきたので、アマゾンで手に入れたものです。
 あの「アテブレーベ・オブリガート」が流行語になった大河ドラマの底本となった書です。
 信長その人のひととなりが活写されています。
 当時の庶民、おもにキリシタンの生活が鮮やかに、細に描写されていて、実に興味深いです。
 比叡山を焼き討ちするなど、仏教に対しても酷薄な態度を貫いた信長は、フロイスにはむしろ理性的な人物に映ったようで、終始好意的に描かれています。
 
 フロイスは異国人の目を通して、日本の風習のいかに奇妙であるかを紹介しています。
 しかしながら、その洗練度に驚嘆し、あるていど尊重しています。
 でもです、でもやはり匂うのです。西洋の優越感の香りが。
 信長の口を通して、彼はこう言わせています。
 
 「大国からは大いなる才能や強固な精神が生じずにはおかぬものだ」
 
 ただ、フロイスの残した業績に対する評価としては、過大ということはないでしょう。

季節のない街

 あっという間に七月です。早いものですね。毎日暑苦しくて、冷や麦ばかり食べています。
 季節を嫌というほど味わっている訳ですが、今回読んだのは「季節のない街」です。
 作者は山本周五郎。前回は「青べか物語」の感想を書きました。
 「青べか」がとても良かったので、青べかⅡを期待して手にとった訳です。
 あとがきの開高健の文章にも励まされるものがありました。
 しかし、率直な感想を言うと期待はずれだったかなと思います。
 底辺で生きる人達の辛さやみじめさをテーマにしているのは共通していますが、青べかがそれでもどこか寓話的で幻想的な雰囲気を持っているのに対して、「季節のない街」はより現実的で救いの無いように見えます。
 
 この違いは、舞台の違いに起因するのではないかと考えます。
 青べかの舞台は千葉県浦安ですが、季節のない街の舞台は横浜某所だそうです。
 浦安は現在では都会だと思いますが、当時は貧しい漁村で文化果てる地だったのでしょう。
 対して横浜某所は貧民街ですが、どぶ川ひとつ隔てて繁華街と近接しているということになっており、より都市に近いようです。
 物語のなかにも文化人くずれが何人か登場します。代表的なのが右翼の先生、寒藤清郷ですが、その他にも「プールのある家」のルンペンの父親、「がんもどき」の元中学教員、綿中京太、「肇くんと光子」の福田肇などが数えられます。
 おそらくは都市から流れてきたのでしょう。彼らの存在が絶望とは何なのかを伝えているようです。
 彼らは学問はあるのですが、人間的な弱さから落ちこぼれてしまい、さりとて肉体労働する気にもなれずに無為徒食の日々を送っています。
 プライドがそうさせるのです。
 青べかの登場人物にはそんな輩はいなかったように思います。
 とんでもなく無知蒙昧だったり、逆に狡猾だったりしましたが、誰もが訛り言葉をしゃべりあるがままに生きていました。
 それはまるで朝もやの中のような、ひとつの基調色に統一された世界です。
 しかし季節のない街では都市と貧民街のコントラストが貧しさをするどく縁取っているのです。

小松和彦

 民俗学者の小松和彦の著書を二冊ほど読みました。
 「異人論」と「神隠しと日本人」です。
 
 「異人論」のほうは、85年に出版されたもの。そのせいか、作者近影が若く、かなりイケメンです。
 内容は論文集で、「異人殺し」というものが中心のテーマとなっています。
 論文集なので、固い内容もあり、よく分からない部分は一部飛ばし読みしました。
 
 「異人殺し」の典型的な例とはこういうものです。
 
 『ある家に山伏が訪ねてきて一晩の宿を乞うた。主は山伏を泊めてあげることにした。
 ところが山伏が非常な大金を持っていることに気がつき、欲に目がくらんで、寝込みを襲って殺してしまった。
 そのお金を元にして彼の家はたいへん栄えるようになった。
 しかしなかなか跡継ぎが得られなかった。これは山伏の呪いであると考え、祠を建てて鎮撫した。
 お陰で跡取りが得られた。彼の家は長者の家系となった。
 しかし後代の子孫が祭事を怠るようになり、祠を毀ったので、さまざまな災厄が振りかかるようになった。
 そのためについにその家は途絶えてしまった』
 
 このような例をいくつも挙げて、さまざまな角度から検証を加えていくというスタイルです。
 興味深いのは、異人殺しが実際には行われていなかったにも関わらず、このような伝承がまことしやかに伝えられている例があることです。
 小松先生の導き出した結論はなかなか刺激的です。
 こういう伝承が村の中のジェラシーを吸収する装置になっていたのだというのです。
 つまり、隣家の繁栄はとても妬ましい。ウチと何が違うのか? そうだその富は大変な不正のもとに生み出されたに違いない。ウチは貧しいが決してそんな真似はしない———。
 あるいは名家が急に没落してしまった場合、(実際にはありもしない)異人殺し譚を設定することで受け入れやすくすることができます。
 供養を充分に行わなかったために祟りを受けたのだと。
 
 逆に考えると、フィクションを設定しなければならないほど、昔の人々にとっては、特に理由もなく富んだり、あるいは貧しくなることが受け入れがたい事実であったということのようです。
 現在の感覚だと、そっちのほうがよっぽど奇妙に映りますが。
 
 「神隠しと日本人」のほうは、年代も下りもっとくだけているのでずっと読みやすいです。
 こちらも「神隠し」の実態と、その機能について詳細な分析が行われています。
 それによって「神隠し」が“事実”をくるむオブラートととして機能していたことが明らかにされます。
 つまり、実際には誘拐されたり、殺されてしまったりしたであろう人たちにたいして「神隠しにあった」と言うことで、微かな生の期待を繋ぎ、残された人たちへのダメージを軽くすることができた。
 あるいは、個人的な理由で出奔してしまった人たちに対しても、「神隠しにあった」と言えば不問になったということです。
 神隠しとはまことに曖昧なものですが、このように包むような優しさがあったのです。
 すべてを社会の内部の因果関係の中で理解しようとする現代では、起こり得ないことがわかります。
 
 ところで、浦島太郎までを神隠しの例に引いているのを見て思ったのですが、現代の浦島太郎と言える「ひきこもり」も、当時であれば「神隠し」と言われたでしょうか?
 そうであれば、現代の異界はまさに家庭のなかにあるといえます。
 浦島太郎が遊んだ竜宮は、今ではインターネットやオンラインゲームがそうなのかも知れませんね。

日本パソコン旅日記

 パソコンを使った旅の情報収集法や、記録のまとめ方などを紹介した本です。しかし、あまりパソコンとは関係のない紀行文が大部分を占めています。
 初版は十年以上前の97年。そのためインターネットにはあまり触れられておらず、「駅すぱあと」とか、「ニフティサーブ」などという郷愁を誘う言葉が頻出します。
 内容は完全に陳腐化しているでしょう。今は旅先から携帯でブログを更新できる時代ですから。いま出すなら「日本ウェブ旅日記」でしょうね。
 しかし、それを分かっていながらこの本に手を出したのは、十年前と今とで何が大きく変わり、逆に何があまり変化していないのかに興味があったからです。
 
 画像や動画といったコンテンツ自体はそう大きく変わっていないような気がします。たぶん(クオリティは別として)今でも普通に見られるでしょう。
 ただ、パソコンの中で使うパッケージソフトがどうしようもなく古い。いかに有益な情報だとしても、特定のソフトに依存してしまうようなデータは一顧だにされないでしょうね。
 そう考えると、特定のOSだとかブラウザに依存しないインターネットの世界は簡単には陳腐化しない気がします。
 
 逆に大きく変わりそうなのが、ハードの方です。
 十年後にはパソコンに代わって、携帯電話や、PSPやDSのような携帯ゲーム機がインターネットを利用するメインの機器になると思います。
 利用とは閲覧するばかりではなく、記事を投稿したり、保守をしたりすることも含まれます。
 でも親指だけで操作する携帯も難儀ですが、十字キーと数個のボタンしかないゲーム機でどうやってそれをするんでしょうかね?
 おそらくATOKを更に発展させたような強力な入力支援ソフトが作られるようになるのでしょうね。そしてサイト側にもそれを支援する仕組みが求められそうです。
 モバイルを意識することがウェブサイトの陳腐化を防ぐことにつながるのではないかと思いました。

黒い仏

 これはひどい。
 
 ひどすぎて思わず表紙を撮るのを忘れてしまいました。
 これはミステリーなのかと首をひねりたくなってしまう作品です。
 
 わたしが殊能将之の作品で最初に手に取ったのは、例によって「ハサミ男」なのですが、いっぺんにファンになってしまいました。
 その魅力はトリックよりもむしろ文章そのものにありました。
 どんなキチガイじみたことでも淡々した語り口を崩さない。磁器のような冷たさと滑らかさを併せ持つ文章だったのです。
 
 しかし、今回の漫画チックな展開ときたらどうでしょう。文章もそれに引きずられて、恐怖よりもむしろ笑いを誘います。
 そんなアイディア一発の作品よりも、緻密なものを期待しているのですが、無駄なのでしょうか?

Dの複合

 今年は松本清張生誕百周年にあたるそうですね。
 わたしの田舎は記念館もある清張ゆかりの地、北九州なのですが、今まで「砂の器」しか読んだことがありませんでした。
 いい機会なので有名どころを手に取ってみました。
 
 この作品も、「砂の器」も四十年以上も昔の作品なのですが、まったく古くないのに驚かされます。
 舞台自体はもちろん昭和なのですが、文章が実になめらかなので、違和感や陳腐な感じを与えないのです。
 テーマは民間伝承というとても地味なものなのですが、にもかかわらずテンポよく展開していって飽きさせません。
 
 しかし、島田先生の言っていた「(社会派は)フェアさを欠く」というのも分かる気がしました。
 あまりにも沢山の情報が、関係あるのかどうなのか分からない状態で提示されるので、読んでいて「いっちょ犯人を当ててやろう」という気にはならないのです。
 とくに「Dの複合」の意味が提示されるところなど、強引さすら感じてしまいました。
 この文章のまえでは、読者は探偵よりもむしろいち観客になってしまうのではないでしょうか?

島田荘司のミステリー教室

 本格ミステリーの巨匠、島田荘司の推理小説指南書です。
 わたしは「占星術殺人事件」と「斜め屋敷の犯罪」、それから「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」くらいしか読んだことがないのですが、そのトリックの凄さには圧倒されていました。
 ただ文章がちょっと好みではないので、あまり手を出していませんでした。
 
 かなり厳めしい印象があったので、「北方謙三みたいな内容だったらどうしよう」と思っていたのですが、さにあらずで、「原稿を印刷するときには縦書きか?横書きか?」とか「『字下げ』って何ですか?」等の基本的な(だからこそあえて質問し辛い)疑問に多くの項を割いて、丁寧に回答していました。
 ただ途中でしばしば、日本人論みたいな話に脱線してしまうのはどうかと思いましたが。
 
 先生は綾辻行人、歌野晶午などの後にビッグネームになった新人を世に出したことでも知られています。
 それだけに新しい才能への希求心がこの本の随所に現れていました。
 「本格ミステリー」という言葉は、論理思考の別名であるところの「本格」と、超常現象を表す「ミステリー」を組み合わせたもので、いわば「バーモントカレー」くらいに矛盾を孕んだ造語だそうです。
 実はいまだに、真にこの名に値する作品は少ないのだということを訴えていました。
 
 乱歩に始まる日本のミステリーの歴史と、その特別な(不幸な)事情の話は興味深かったです。
 ただ「隣百姓の論理」だとか、江戸時代からの「闇の文化」が影を落としているだとかいう議論はやや偏っているのではないかと感じました。

黄金を抱いて翔べ

 久しぶりに高村薫の本を読みました。前回読んだのは十年以上も前の「マークスの山」になります。ただ当時から、すごい重厚な文章だなという印象は持っていました。
 この「黄金を抱いて翔べ」はデビュー作だそうですが、容赦のない超精密な描写に打ちのめされます。
 「大通りから数ブロック離れた豚骨ラーメンの匂いがする通り」とか、「白っぽい箱から出た赤っぽいコード」とかいう曖昧な表現は一切なく、すべてを言葉で説明尽くそうとする気迫を感じました。
 作家とはここまでしなければいけないものなのかと頭が下がります。と同時に、高村薫はデビュー当時から高村薫であったということに感銘を覚えました。
 
 ただ、物語の展開自体はけっこう単調です。とちゅう暴走族と揉めたり、左翼と揉めたり、北の工作員と揉めたりするのですが、それ自体が金塊強奪を阻むものではない。
 幸田と神父の関係がこの作品の最大のミステリーだと思うのですが、それもあまり消化されないままだったような気がします。
 それよりいつの間にかモモとのことのほうが大切になってしまった感じ。こっちのほうも「えぇそういうことになってたの?!」ですが。
 
 読後の感想は、「すごいんだけど、なんか疲れた」
 体力に自信のあるときに、別の作品にもトライしてみたいです。