ブックセンターいとう 聖蹟桜ヶ丘店閉店

閉店したのが今年の二月だそうなので、だいぶ亀なのですが…。

こちらも前に記事にしたジェーソン昭島店同様、かつてのサイクリングコースでした。
お値段はチット高めながら、ブックオフよりも品揃えが充実していて、ワクワクさせてくれるお店でした。

去年の7月に、たまたま近くに行った折に立ち寄ったのが最後となりました。
残念ですが、いい思い出を残してくれたことに感謝したいです。

記憶のすきま

日は落ちたのに室内の温度計を見ると、37度という画期的な数値を指し示しています。
今日は夏祭りがあちこちで行われていて、窓を開けていると祭り囃子が聞こえてきましたがもう止みました。

さて今日、日経新聞の電子版で“「超記憶」を持つ人々”という記事を読んで心底羨ましく思った次第です。
要するに、何十年も前の事を昨日のことのように思い出せる人たちについての記事なのですが、何十年はおろか一週間くらい前のことすらも薄靄がかかったような有り様の身としては、羨ましい限りです。

わたしは、近頃とみに、人にとって真の財産、それは『記憶』ではないかと思うようになりました。
金は盗まれるかも知れないし、仕事は景気が悪くなれば失うかも知れません。
名声を得たとしても、時の移ろいとともに忘れ去られるかも…。
しかし記憶は誰にも奪われはしないーー。

と、そこまで考えてみましたが、いや、記憶も奪われますな。
それも他ならぬ自分自身によって。

個人的なふたつの傍証を。

この間、図書館でちくま日本文学シリーズの開高健を借りたのですが、すごく妙な感じがしたのです。
すごく既読感があるのですが、作品毎にそれがマチマチなのです。

  • 「流亡記」確実に読んだ記憶あり。しかし別の本で読んだのかも知れない。
  • 「二重壁」記憶なし。しかし、主人公が崎山からカメラを押し付けられるシーンにはすごく既読感を覚える。
  • 「声だけの人たち」記憶なし。
  • 「笑われた」読んだ覚えあり。
  • 「ベトナム戦記よりー”ベン・キャット砦”の苦悩」記憶なしーー、かと思ったが最終段は確かに読んだ記憶がある(それは感動的である)
  • 「戦場の博物誌」記憶なし。かと思ったが“ストッパー”については覚えていた。
  • 「まずミミズを釣ること」記憶なし。
  • 「一匹のサケ」これも記憶なしかと思ったが、「トトチャブ」のくだりでやはり読んだことがあることに気が付く。
  • 「河は呼んでいる」記憶なし。

全体的に見ると、やはり以前この本を手に取ったことは確実だと思うのですが、どうしてこうも乱杭歯のように記憶がマチマチなのかと疑いたくなります。
ブログを見返すと、08年に開高について書いているので、もしかかしたらその辺りで読んだのかも知れませんが、6年も前だから忘れて当然と受け止めるべきか、読みの浅さを反省すべきか迷うところです。

次。
今日デジカメのデータ整理をしていたのですが、何かおかしい。
そうGWに行った千葉の写真が一枚もない!
パソコン中を徹底的に検索したけれども見つからない!
そんなハズないと思うのだけれど、やっぱりパソコンにデータを移す前に消したとしか考えられませんでした。

一体なぜそんな真似をしたのか、当時の記憶が無く、杳として分かりません。
ちょっと大袈裟ですが、何か無意識の隙間からハイド氏が顔を覗かせたかのような、自分の正気を疑ってしまうような出来事に感じショックでした。

それで今日はデータ救出に貴重な時間を費やしてしまいましたよ。
話はやや横道に逸れますが、まずGoogleで検索して最初に出てきたデジカメのデータ救出ソフトを使ってみました。
とりあえず、無料の体験版でやってみたのですが、デジカメのメモリをスキャンすると、おぉ! 出るではないですか?!失ったはずの画像データが。
そこでパソコンに保存しようとすると、「ここから先は有料版のみの可能です」とのメッセージが。
何か、カリントウだと思って口にしたらイヌの雲古だったかのような、非常に冒涜的なものを感じ、そのソフトは打ち捨てました。

それで、徹頭徹尾無料のものをダウンロードして使ってみたのですが、それだと部分的に復元できることにはできるのですが、不十分で、さっきまでカリントウで見えていた全てのデータが救出できない。
で別の、救出するデータが1GBまでは無料ヨ!という、非常にケチ臭いソフトを使ってみたらどうにか全て救出できました。
データもギリギリ1GBに収まり、どんなもんだと胸を張りたいような、奇妙な充実感を覚えました。
(この記事をまかり間違って開発者の方がご覧にならないことを願います)

しかし、全てとは言っても本当に全てではなく、最初に撮った方の写真、つまり小湊鉄道に乗って養老渓谷で降りるところまでのは無くなっていました。
たぶん消した後に撮った写真に上書きされてしまったのだと思います。
それでも、養老渓谷の自然や翌日の外房の海岸の風景などは完全に復元されたので、浅い傷で済んだかなと思います。
GW後に出かける予定がほとんど無かったのが幸いしたよう。
幸か不幸か分かりませんが。

<付録>房総旅行記


つげ義春が泊まったという「川の家」
直前に読んだ「貧困旅行記」に影響されて、旅先に房総を選んだ


作品でも触れられているとおり、穏やかな川面


弘文洞跡
かつてはトンネルだったが、昭和54年の5月24日未明に崩落したそうだ


泊まった、いすみスカイホテル 潮騒館
館というより小屋のようだった
中は新しく、快適だった


宿の前には外房の海に面した潮溜まりが広がる


早朝の海


大原港に向かって海岸を歩く
ゴミひとつ落ちていない綺麗な海岸で感激した
波間にはサーファーの姿があちこちに見えた


大原港
ここもつげ義春ゆかりの地か


大原駅のそばの「エンゼル」で昼食を摂る


ボリューム感たっぷりのチキンカツ定食
スープはラーメンの汁だわこれ


帰り道に立ち寄った、船橋の紅梅湯
いい湯でした

(書評)ボクには世界がこう見えていた

年度末で忙しく、またちょっと投稿の間が空いてしまいましたが、その間に季節はぐっと春に近づいてきました。
ついにコタツを片付けましたよ。(まだちょっと早かったかな)

春になると、ちょっと頭が暖かい人が出没するとかよく言われますが、最近それ系の本を読んだので紹介したいと思います。

「ボクには世界がこう見えていた −統合失調症闘病記−(小林和彦著)」

(副題を隠せば)何かライトノベル風のタイトルで、表紙もまぁ見ようによってはそんな感じなので、気軽に手に取ってしまったのですが、内容の「ガチさ」に後退りします。
う〜ん、これは「黒歴史ノート」そのものではないか……。
著者の小林さんのプライベートな部分が赤裸々に書かれているため、痛々しさに読み進めるのが困難に感じられることもしばしばでした。

しかしこの本がすごく興味深く、底知れない魅力を湛えていることは事実です。
それはやはり著者のキャラクターと読者(自分)が重なる部分が大きいからでしょう。
大卒、読書家、理屈っぽい、オタク、アイドル好き、お笑い好き、といったよくいるタイプの青年だったのです。(最近は「真面目系クズ」とか言われる)
なので読んでいて「自分ももしかしてこうなるんじゃ…」といった漠とした不安を煽られました。

それから、その頃(80年代)の大事件や社会状況なんかにもよく言及されているので、当時の雰囲気を知る良い材料になるのではないかと思います。

とは言え、この本の肝が妄想そのものにあることは間違いありません。
1986年7月19日の「おニャン子クラブコンサート」から始まり(よくこんな細かく日付を覚えてるな…)、7月25日にXデーを迎えるまでの狂気のクレッシェンドは「ひとりパノラマ島奇談」とも言うべき極彩色絵巻の相を呈しています。

特に挿入される「おニャン子アニメの企画書」がヤバイッッ!!
こっそりライトノベルや漫画を描いたことのある、後ろ暗い過去を持つ人は読まない方が良いかも知れません。
わたしはしばらく動悸が止まらず「救心」が欲しくなりました。

著者は最初の発狂後、釧路の病院に入院します。
その後も入退院を繰り返しながら、病気と向きあう姿がスパイシーに描かれていきます。
そして現在(2011年)に至るも、まだ社会復帰は叶わないという、やや厳しい現実で締めくくられます。

しかし、読みながらかなりモヤモヤするものが…。

病気のせいなのかも知れませんが、どうも自己愛、甘えが鼻についてしょうがない。
これについては同じ大学出身で、亜細亜堂の先輩である望月智充氏があとがきで苦言を呈しています。
それでやっと溜飲が下がりました。
ですがその事を差し引いても、偏見もあるであろう病気のことを、これだけ仔細に書き残して発表したということは大変勇気あることでは無かったかと思います。

この本を読んで感じたのは、創造性と狂気にはかなり深い関係がありそうだということですね。
それは、以下の言葉などにハッキリと言い表されています。

「この時点で、自分は少し精神状態が危ないのではないかと気づくべきだったかもしれないが、別に幻覚も幻聴もなかったし、創作者としてかつてない創作意欲に満ちている、幸福な状態だと思っていた」
「薬物治療は僕をおとなしくさせたが、同時に創作者として最も大事な想像力まで奪われたような気がしてならなかった」

創作にのめり込みすぎる余りおかしくなった芸術家なんて、古今枚挙の暇なくいますからね(ゴッホとか)
もしかしたら、クリエイターの成功とは、その狂気の部分を上手くコントロール出来るかにかかってるのかも知れません。
「正気にては大業成らず」といったところでしょうか。

2013年の読書を振り返って

昨年(2013年)の読書を振り返ってみたいと思います。

ひとことで言うと「ミステリーの年」だったのではないかと思います。
コナン・ドイルやアガサ・クリスティーの古典的作品を読みあさりました。
日本人では東川篤哉に出会えたことが大きかったです。

また、芝崎みゆきの「古代マヤ・アステカ不可思議大全」によるアステカ熱の再燃も思い出深い。
その中で紹介されていた「マヤ文字解読(マイケル・コウ)」も、読んでみたのですが、とても面白かったです。

年の暮れ頃ではミステリー熱はひと段落して、エッセイを中心に読むようになりました。
印象深かったのは「杉作J太郎が考えたこと」、「呑めば、都(マイク・モラスキー)」、そしてドイツのロルちゃんの「百夜一夜」ですね。

ロルちゃんと言えば、彼一押しの作家、デイヴィッド・ミッチェルの「ナンバー9ドリーム」と「クラウド・アトラス」を読みました。
正直口に合わなかったですが、「ヤコブ・デ・ズートの千秋」まではトライしてみたいです。

それから、左の欄には載せませんでしたが、トーベ・ヤンソンのムーミン谷シリーズも通読したのでした。
ペン画のイラストレーションが息を呑むほど美しく、楽しく読みました。

最後に写真集は、なんと言っても須田一政の「凪の片」が一番の収穫。

ドイツのロルちゃん「百夜一夜」

須田一政のトークイベントが終わった後、余韻も冷めやらぬうちに、こんどは新宿に足を運びました。
それというのもこの日(個人的に)大物スターが来日し、新宿でサイン会を行うからです。
その名は「ドイツのロルちゃん」

(「誰だよ…」)

そんなつぶやきが聞こえたような気がしますが、わたしだって本名は知らないんです。
「ロルちゃん」と名乗る、日本通のyoutube投稿者、兼、ブロガーとでも言いましょうか…。
日本人向けにyoutubeブログ記事を投稿されているドイツの方です。
ちなみに男性です(しかも中年)

わたしは五年くらい前からロルちゃんの存在を知って、そのyoutubeの投稿やブログの記事を楽しんできました。
そのロルちゃんが秋の長期休暇を使って日本に来る(去年も来た)、しかもブログの記事をまとめた自費出版本を持ってきて売るというので、この機を逃してはならぬとばかりに会場に足を運びました。

場所はダ・ヴィンチ新宿ビル6Fの、レンタルオフィス・クロスコープ。
最初は新宿駅のサザンテラス口で露天売りしようとしていたらしいですが、この日は雨。
オフィスを借りて正解でした。

駅から10分程歩いて目的のビルに到着します。
エレベーターで6Fに上がると、ロルちゃんのポスターが。

ああ、この奥に本当にロルちゃんがいるんだなぁ、と感慨にふけります。
オフィスに入ると受付が。
(この受付の男性、どこかで見たことがある…。)
そう、youtubeのビデオにも出てきた「23ヶ国語を話す男」アレックスさんではないですか…!!!
しかしミーハーではないのでおくびにも出さず、自費出版本「百夜一夜」の代金を払い、引換券を受け取ります(¥1,500)
さらにロルちゃんがドイツの「海賊党」にインタビューしたDVDを¥500で販売するというので、こちらもお願いし、計二千円を支払いました。

引換券を持って別室へ。
会議室のような部屋で、一番前のテーブルでちょうど前のお客さんにサインをしていました。
で、後ろの席に座って待っていると、わたしの番が来て呼ばれます。
ついにロルちゃん氏と初対面です。

普段youtubeの画面を通じて見ているのを現実に間近に見ると、現実感が無いというか実に妙な感じでした。

そしてこれがロルちゃんの自費出版本、言わば同人誌の「百夜一夜」
101個のコラムを載せているので、「千夜一夜」をもじってこのタイトルにしたんだそうです。

ちゃんとサインも頂きました。

これが目次で

中身はこんな感じです。

普通の本と考えると高いが、同人誌と考えれば安いーーそんな感じです。

天気が良くなかったせいかあまり客足がなかったため(わたしが来たのは開場後40分くらいだったが、それまでに来たお客さんはマダ10人くらいだったとか)、結構お話させて頂きました。
オマケに写真まで一緒に撮ってもらいました。
いい思い出になりそうです。
ロルちゃんどうぞ日本旅行を楽しんで来て下さい。

マヤ・アステカ本紹介

久しぶりに感動的な書物との出会いを果たしたので紹介させて頂きます。
柴崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』&『マヤ・アステカ遺跡へっぴり紀行―メキシコ・グアテマラ・ホンジュラス・ベリーズの旅』の二冊。

↓裏表紙

わたしは定期的にマヤとかアステカとかの中央アメリカの神話や歴史にハマるのですが、今回コレにより猛烈に燃料を投下されています。
ケチな自分には珍しく、新品でGetしました。
(ちなみに前回のピークは、07年に国立科学博物館でやった「インカ・マヤ・アステカ展」でした)

『古代マヤ・アステカ不可思議大全』は、マヤ・アステカの歴史と神話を解説したものです。
『マヤ・アステカ遺跡へっぴり紀行』の方はその姉妹本という位置づけで、柴崎先生が07年に行った遺跡巡りの旅をまとめたものです。

この本の何がスゴイかと言うと、全てが手書き!
イラストのみならず、文章も全て手書きなのです。
その労力たるや……。

そして漫画もいっぱいなので、とにかく分かりやすい。
実は今までマヤやアステカの本を読んできても、イマイチよく分からなかった…。
地理が曖昧なうえ、人物名(とか神の名前)が読みずら過ぎて頭に入らなかったのです。
先の展示会でも、「スゲー!(けど何だっけコレ…?)」という感じでした。
しかし今回初めて系統立てて理解できた気がします。

Amazonでもクリック!なか見検索でサワリが見れますが、雰囲気が分かるようにちょっとだけ引用させて頂きたいと思います。

これは『古代マヤ・アステカ不可思議大全』の漫画のパートの一部。
マヤの神話「ポポル・ヴフ」を解説しています。
マヤ神話にここまで親近感を感じて接することが出来たのは史上初めてではないでしょうか。
(しかしそれでもストーリーが余りに理不尽過ぎて、マヤ人と現代日本人との隔絶を感じずにはいられないのですが−−)

これは、イラストと文章からなるパート。
全体的にはこっちが基調で、要所要所に漫画が挿入されるという感じです。
先にも述べましたが、これみな手書き。
300ページほどもあるこの本、スゴイです。

『マヤ・アステカ遺跡へっぴり紀行』の方も同様の構成ですが、↓のように各遺跡のガイドが載っています。
これには実地を踏んだ生のアドバイスが満載(転びやすいとか)で、旅行前の予習としても有益なんじゃないかと思いますね。

それから旅先での生々しい人間模様がたまらない。
傲慢な白人ツアー客が出てくる場面では、柴崎先生の鬱憤に首を痛くなるほど縦に振りたい気分でした。

あと、ヤクザに憧れる変なお兄ちゃんが出てきたり、物売り攻撃はあるものの、想像していたよりメキシコの治安が良さそうだったのが意外でした。
柴崎先生も遺書を書いて出発したそうですが、わたしの印象も「北斗の拳」並だったので。
いっぱいある親切エピソードに、メキシコに対するイメージがだいぶ変わりました。
おかげでメキシコへの憧憬がふつふつと湧いてきましたよ。

柴崎先生ほかに、エジプトとギリシア神話本を出しているらしいので、見つけたら即入手したいです。

北村薫トークイベント当日編

待ちに待った、北村薫先生のトークイベントが開催されました。
昨日でした(10/21)
場所は、北千住にある足立区中央図書館の入っているビル(学びピア21)の四階講堂です。
13:00開場、13:30開始。
開始10分前くらいに入ったのですが、すでにステージそばの席は埋まっていたので、仕方なく後ろの方に上って行きました。
席は8割がたというところ。
高いところから観衆を眺めてみると、男女比は若干女性が多め。ティーンネイジャーはどうもいなさそうでしたが、それ以降の年齢層はおよそまんべんなくいるように見えました。

開始時間が来ると、まず図書館長の挨拶があり、その後先生の登場です。
おお、生北村薫! 残念ながら席が遠いのであまりはっきりとはお顔が見られません。
しかしお年六〇を越えているのに、髪は黒く、薄くもなく、若々しく見えました。

プログラムは、「書く」「読む」「編む」をテーマとした三部構成となっていて、事前に参加者から寄せられた各テーマごとの質問に対して答えてもらうというものでした。

「書く」は北村薫の作品づくりに関する質問です。確か五つくらい寄せられていました。
どんな質問の答えだったか失念しましたが、先生は時系列表を作らないそうです。
これはちょっと意外というか感心しました。というのは小説を書く場合には矛盾が出ないように時系列表を作るもので、「小説の書き方」みたいな本でもだいたい、執筆前の準備として勧められています。
絵画でいうならば、アタリを付けずにいきなりカンバスに絵の具を塗るようなものでしょうか。
それでいて、だいたい思った通りの構成に仕上がるのだといいます。
すごい! 物語の仔細が丸ごと頭に入っているからこそなせる技でしょう。

それから同じテーマでニヤッとしてしまう質問がありました。
続編を書く予定のシリーズはあるのか?というものです。
先生は、「『私シリーズ』(デビュー作「空飛ぶ馬」から続く)のことを言ってるのでしょう?」と質問の意図を看破し、難しいと仰っていました。
理由は「『私』に男が出てくる作品は書きたくないから」
答えに開場は笑いに包まれていました。(確かにそれはわたしも読みたくない)

先生にとって『私』さんは特別なキャラクターなのだそうです(それは彼女にだけ一人称で漢字の「私」を使っていることにも現れているとか)
それゆえ軽々しく書くことが出来ないそうな。
もはや娘のような感じなのか…?
そういえば、シリーズ最終作の「朝霧」ではなんかラブアフェアに発展しそうな感じで終りを迎えます。
大学四年間、更には就職してからも男気なしでやってきた『私』さんに人前の経験をさせてあげようという親心だったのかも−−−。だが、それ以上はやっぱり許さん!みたいな?(勝手な想像です)

次のテーマの「読む」
必要な書籍とか資料をインターネットで手に入れられるようになり便利になったと言った後、しかし逆にかつて本好きがやっていた古書店めぐりが過去のものになってしまい寂しいと仰っていました。
ふーむ確かに。

それから身につまされるお話も。

ひどくつまらないと思う本に出会ったとしても、その責任を全面的に作者に負わすわけにはいかない。
それは、読み手こそが心の舞台における物語の演出家だから。
つまらないと感じるのは、演出家が作者の意図をじゅうぶんに汲み取れなかったせいかもしれない。

なるほど。
この辺りのお話は、シェイクスピア劇を例に出されていましたが、教養がないので正直わけわかめでした。

最後のテーマの「編む」ですが、これは北村先生のやっている編集のお仕事や、聴講者にたいするアドバイス的なパートでした。
ここでは特に記憶に残る質問はなかったなぁ。

さてあっという間に刻限の15:00となり、盛大な拍手に包まれて先生退場されていきました。
しかしなんと即席で即売会&サイン会が開かれるとのこと。
いそいそ退場し、受付に向かいます。
しかしそこにはすでに長蛇の列が。無念、断念しました。(それに金欠なんだよね)

開場近くの荒川の川縁を歩きながら、講演の内容を思い返しつつ帰路についたのでした。

篠田節子「家鳴り」

 最近読んだ、篠田節子の「家鳴り」という本が結構面白かったです。
 七編の短編が収められていて、どれもぞくっとするような怖さがあるのですが、冒頭の「幻の食糧危機」が白眉かと思います。
 東京を大地震が襲い、難民化した都民が食糧を求めて周辺の地域に流れ込み、在住民と果てしないトラブルを巻き起こすという内容です。
 おそらく阪神大震災を念頭に置いて書かれた作品だと思いますが、東日本地震が置き、首都圏直下地震への危機感が高まっている今読むと、強い説得力を感じます。
 本当の備えとは何なのかということを考えさせられました。

山周

 最近は山本周五郎読んでいます。山周
 読んでいるのは「樅ノ木は残った」
 かなりボリュームがありますが面白くてぐいぐい引きこまれます。近所の図書館はプアな品揃えですが、山本周五郎はいっぱいあります。良かった。
 今更図書館のラベルにモザイクをかけてみましたが、もう遅いですか。

大岡昇平

 最近は大岡昇平の小説を読んでいます。
 
 「野火」から入って、「武蔵野夫人」と読み進み、ついこないだ「俘虜記」を読み終わったところです。
 野火は面白かったです。逆に武蔵野夫人は野火を読んで期待が大きかった分、イマイチの感触を拭えませんでした。
 俘虜記はノンフィクションだそうなので、ちょっと違った評価をしなくてはならないかも知れません。この捕まるまでの体験を煮詰めて、小説の型に流し込んだのが野火かなぁ、と思います。しかしその事細かな描写と記憶力はすごい。
 
 大岡昇平の文章は生真面目で、内省的です。ねっとり系というか、クチャクチャと出来事を反芻する文です。自身の内面へ内面へと思索を深めていく様は、厳しい観察態度に感心させられますが、正直読んでいて疲れます。
 俘虜記の最初の方で、撃てる場所にいた敵兵を狙撃しなかったことについて、博愛主義、キリスト教的倫理感、エゴイズム、単なる偶然…等々、ああでもないこうでもないと色々と検討するのですが、執拗な議論に読んでる方が途中で投げ出したくなるほどです。
 まあそれでも戦争ならば内省的になるのもわかりますが、武蔵野夫人みたく不倫でそれをやられると「もう勝手にしてくださいよ」とも言いたくなります。
 
 加えてスタンダールやジッドなどという衒学がちょっと鼻につきます。大岡昇平はもちろんインテリですし、その分身であるところの野火の主人公もインテリです。そのインテリ男が、土地の民間人をうっかり撃ち殺してしまったり、狡猾な同輩に手榴弾を騙し取られり、イヤな元上官の懇願を断りきれずに看病する羽目になったりします。
 上のようなシーンを読むたび唾を吐きたいような気分になりました。フランス文学の教養や複雑な思索を操る立派な頭に比べて、現実がこれでは情けな過ぎるではないですか。
 しかしながら戦争というハードな舞台においては、観念は必ず現実に裏切られることを強調したかったのでしょう。
 
 野火の最後で主人公は発狂します。分裂症です。
 頭の方を肉体の事情に合わせて、人肉食を受け入れていれば、きっと狂わなかったでしょう。しかしそれを退けたので狂ってしまいました。でも彼の所有権を観念と現実とが争って、最後に前者が勝ったのです。それで巻末の数行は、わたしには輝いて見えます。