ブルーバックスの思い出

読書家を自認していたものですが、最近本を読む気が起こりません。
触れる活字といったら、ネットニュースとかマンガといった体たらくですね。
過労が身体のみならず精神にも不調をのこしていったものか……?

リハビリに軽いものをと思いブルーバックスから二冊をチョイスして注文しました。
それが「超常現象の科学」「怪談の科学」です。

どちらも何とも良いカバー。
ブルーバックスは講談社が63年から出版している科学の新書シリーズで、科学者に憧れていた私は子供のころから慣れ親しんでいました。
大きな書店に行くと、本棚の一角がブルーバックスのコーナーになっていて、興味をそそるタイトルが並ぶドラえもん色の背表紙に夢中になったものです。

私が初めて読んだブルーバックスは「真空とはなにか」というタイトルで、忘れもしない、先日紹介したドスコイさんの動画の中にもあった、真駒内のミュークリスタル2階に入っていた書店で買いました。

内容は、トリチェリとかマルデブルクの半球とかの真空の歴史から入り、後半では最新科学によるとミクロ的には真空は実は空っぽではなく、電子と陽電子のペアが常に生まれては消える場であるという衝撃の真実が明かされます。
何も無いはずの真空に、実は構造があるということに当時の私はいたく感動し、自然の秘密をもっと知りたいとブルーバックスを読み漁るようになりました。

ちなみに背表紙のカラフルな三角マークはカテゴリーを表していて、しおりに印刷されてるのですが以下の分類です。ちなみにしおりの片面には科学者の金言みたいなのが書かれてます。

  • 紫‐物理学
  • 赤‐数学
  • 緑‐生物学
  • 黄‐化学
  • 青‐天文・宇宙・地学
  • ピンク‐医・薬・心理学
  • 茶‐技術・工学
  • オレンジ‐その他

ここのことね

物理の本をよく読んでいたので、自然と都築卓司先生(横浜市大名誉教授、故人)の著作を手に取るようになります。
都築先生はブルーバックスでは最多の17冊を刊行されてるそうで、読者の興味をそそるユーモラスな語り口と平易な説明で人気を博していました。
著作リストを見ながら、私が読んだものをピックアップすると――

  • 『四次元の世界』(69年)
  • 『マックスウェルの悪魔』(70年)
  • 『タイムマシンの話』(71年)
  • 『はたして空間は曲がっているか』(72年)
  • 『10歳からの相対性理論』(84年)
  • 『10歳からの量子論』(87年)
  • 『時間の不思議』(91年)

この年代の幅だけ見ても長期にわたって執筆活動されてきたことが分かります。
なかでも一番印象に残っているのは「タイムマシンの話」ですね。
冒頭、自分の乗る飛行機が墜落することをたまたま手に入れた「明日」の新聞で知り、辛くも難を逃れるというエピソードが語られます。
実際に起こった航空事故(全日空羽田沖墜落事故 66年)を下敷きにしていて、緊張感漲り、これだけでもSF小説として成立するのではないかと感じるような手に読み応えあるプロローグでした。

あと名脇役じゃないですが、永美ハルオさんが挿絵を手掛けていたものが多いですね。
コミカルな絵柄が絶妙にマッチして味わい深かったです。

他の著者で記憶に残ってるものとしては南部陽一郎(『クォーク』(81年))
ノーベル賞を獲った時には「あれ? この人の本読んだことあるぞ」と腰を浮かせました。
クォークという陽子や中性子といった原子を構成する粒子よりもさらに小さい微粒子を発見するまでの、理論・実験両面からの探究を描いた本だったような気がしますが、都築先生のような遊び心あふれる文体ではなかったため文章そのものは記憶にないですね。

もうお一人は中西襄(『相対論的量子論―重力と光の中にひそむ「お化け」』(81年))
ブルーバックスは電車の中で気軽に読めるような新書なので、難解な理論を数式を使って子細に説明するということはできません(縦書きですしね)
なのでキャッチーな側面をごく皮相的に解説する形になる場合が多いと思います。
それは当然やむを得ないのですが、それでもこの本は場の量子論という超難解な理論の成立について、一般人でも流れを彷彿とさせられるくらいしっかり書いています。
時折挿入される科学者のエピソードもユーモアがあり、名著だと思います。
今でもたまに読み返したくなり、手放さずに本棚に置いている一冊です。

こうして手元にあるのを並べてみると、カバーデザインの変遷が見て取れますね。
左から80年、89年、92年刊行のものです。
一番左のデザインが創刊当時からので、マイナーチェンジしながら、だいたい70年代くらいまで受け継がれたのではないでしょうか。
真ん中は80年代な印象。この頃ブルーバックスに触れたので、このデザインが一番なじみ深いですね。
一番右は90年代以降だと思います。この頃になるとデザインが洗練されてますが特徴的なブルーの差し色が無くてちょっと寂しいですね。
近年はさらに装丁が洗練されてるようですが、手に取る機会がありませんな。

《哀しき過去》
さてブルーバックスを小脇に抱えていた科学少年もいつしか大きくなり、大学進学を迎えたのでした。
選んだのはやはり物理学科。

「物理法則に名を冠してやるぞ」と野心に胸を膨らませてくぐった校門。
ある日、窓から池が見える大きな講堂でオリエンテーションがありました。
忘れもしない、そこで特殊相対論のコマを持っていた講師がブルーバックスを揶揄する発言をしたのです!!
それを聞いて激しい憤懣を感じたことを今でも覚えています。

しかし……、今となってはその講師が正しかったと思います。
ブルーバックスは科学入門にあたっての、言わば離乳食のようなやわやわの書物。
大学では固いパンを飲み下さなければならないと暗に伝えたかったのでしょう。
実際、数式に満ちた大学の教科書は数学の苦手な私にはかなり手ごわく、不如意のうちに科学者を目指した少年時代の夢は色あせていったのでした。

それでも挫折感をさほど覚えなかったのは、その当時パソコンとインターネットが猛烈な勢いで勃興していたことがありますな。
その魅力は物理学への憧れを吹き飛ばすものがあり、卒業後はIT企業に就職、そのまま今に至るわけです。

ブログを更新できなかった期間のこーとー

年が明けて早3ヶ月経過しようとしてますな……。
例年であればもう桜が咲いててもおかしくない時期ですが、今年は寒の戻りで桜の開花が遅れて、珍しく桜の見頃は4月になりそうですね。

去年からもおぉぉぉぉ忙しく、ブログを更新する暇がありませんでした。
特に年始早々が修羅場で、久し振りに徹夜までしましたよ。
残業時間がヤバいっていうのもあったんですが、なにより現場のピリついた雰囲気がいたたまれなかったです。

んで2,3月は悪夢のデスマーチ。平日は深夜残業がデフォルトで3,4時間睡眠の日々でした。
土日は基本的には休めましたが平日の疲れでなぁんにもやる気がせず、ひたすら身体を横たえて体力の回復に努めるという灰色の日々でした…。

不思議なもので、そんなに寝てないと普段眠くてたまらないだろうと思いきや、早起きする必要のない土日でもそんなに寝れなくなりました。
眠くは無いのだけど、頭にモヤッとした不快感がずっと付きまとう感じ。
そして布団に入って寝入ろうとすると、頻繁にこむら返りを起こすのも地味にキツかった。
たぶんこんな生活をずっと続けてたら、いつかとつぜん頭か心臓がプチッ!と逝ってしまうのではないかと思います。

お決まりの腹痛にも悩まされて、朝5錠ずつ飲む正露丸とビオフェルミンがお友達でした。
そして栄養ドリンク。
チオビタ2000とキューピーコーワαをよく飲んでましたね。

キューピーコーワαはほのかにパイナップル味がして好きだった

精神的にもかなり参って来て、出勤時の気の重さといったらなかったですね。
正露丸とビオフェルミンの瓶の隣に、赤ちゃん用の爪やすりが置いてあるのですが、飲む時に毎度目にするので、そのパッケージの愛らしさに癒されてました。

平時では何とも思わないのですが、「こわくないよ」というフレーズもまた心に来るものがありました(うんヤバい)

今になってまじまじと見てみるとちょっと生意気そうな顔をしてるな

「会社…こわくない」「かいしゃこわくないよ…ッ」

確実に病む寸前ですな。
しかし! 幸いなことに忙しさにはピリオドが打たれて、平穏な日々が戻ってきました。
今は3末までの代休・有休の消化中です。
まぁまだ修羅場の真っ最中というメンバーを尻目にですが。
彼らには頭が下がるんですが、私は天使じゃないんで……。

忙しくなる前はラジオを聴きながら悠々自適という感じで仕事をしていたのですが、ちょっとそれどころじゃなかったですね。

そんななか、よく聴いていたニッポン放送「あなたとハッピー!」の準レギュラーである、経済評論家の森永卓郎さんが末期がんを患っているというニュースに触れてビックリ。
森永さんの主張はいつも逆張りチックなので、「う~ん」と思うときが多いですが、特異なキャラクターでリスナーに愛されていたように思います。

やつれた写真が出回っているので、「いよいよか……」と思っていたのですが、つい先日ラジオを聴いてみたところまぁまぁ元気そうでした。(声だけだったからかも知れないけど)
抗がん剤治療が上手くいってるのであれば良いなと思います。

「貧すれば鈍する」じゃないですが、忙しいと本当に視野が狭くなりますな。
視野どころか手足すら短くなったように何もしたくなくなる。ちょっと腰を上げれば済むような用事すら後回しにしてしまいます。

その結果、お風呂場にはピンクカビが蔓延り、換気扇のフィルターは埃でフサフサとなり、トイレの時計は1ヶ月以上も止まったままで放置されていました。(電池切れではなく壊れてた)
ずーっと気になってたのですが、「ちょっと」の手間をかけるのが億劫で手が付けられなかったんです。

コイツらは休暇に入ってすぐに片付けました。
特に時計。
出勤前にトイレに入ると電車の出発時間に間に合うか気を揉むんですよね。会社遠いので家でシッカリ済ませておいた方が良いからなおさら。
時計が止まってると不便でしょうがありませんでした。
止まってた時計は100均でしたが、鬱憤の反動かセイコーのちょっと良いのを買ってしまいましたよ。

休日は家族にほっとおいてもらって、ひたすらYoutubeを観てることが多かったです。
横浜、八王子の歴史とか散歩動画、限界ニュータウンの番組をだら~っと見てました。

従来からファンの限界ニュータウン探訪記は、このごろは更新が滞り気味。浮気してドスコイさんという旅系Youtuberの番組をだら~っと流し見してました。(BGM代わりにしているとウトウトしてよく眠れた)

下の動画は私がドスコイさんを知るきっかけになった動画で、限界ニュータウン探訪チックなところもありおすすめです。

あとはブラック企業の体験談みたいなのも、同類相憐れむではないですが、まーまー観てました。
下のは鬼の33連勤を収めたもの。こんなものまでコンテンツ化してしまうのがなんとも逞しい。

投稿者の方、食事をガッツリ食べてるので若い方だと思います。
私は忙しいとかえって食が細くなりましたね。
33連勤というと労基がブッ飛んできそうですが、土日は半ドンぽかったのでやってけたんでしょうね。それでもひどいと思いますが。
最後に休暇が取れて江ノ島に行けたのは良かったー。
「自分もいつかバカンス取るぞ!」と励まされました。

読書家を自認していたんですが、休日でも読書はほとんどしませんでした。
しないというかできない?
これまであまり意識して無かったんですが、本を読むのも意外と疲れるもんですな。
文字の羅列から脳内にイメージを生成している訳ですからね。そう考えると人間の脳ってまんまAIみたいですね。(逆か?)

「食人の形而上学」みたいな哲学書はもってのほかで、普通の小説でもキツイものがあり。
思うに休日でもどこかでずっと仕事のことを考えていて、脳にそのリソースが割かれていたんだと思います。
逆を言えば、良い読書体験って仕事も順調で、何の患いもないことがもらたしてくれる贅沢なことなのかも知れません。

漫画なら読めて、Amazonのプライムリーディングで無料で読めるのを適当に読んでいました。
食わず嫌いだった「ブラックジャックによろしく」とか「Dr.コトー診療所」とか意外と面白かったですね。
あと絵で敬遠してたんですが、「ナニワ金融道」は読むと裏社会の仕組み(?)みたいなのがわかって楽しかったです。

作者が亡くなった後にプロダクションが出した「新ナニワ金融道」も無料になってたんで読んだのですが、限界ニュータウン探訪記でもよく触れられているバブル期の乱脈な土地開発がトピックとして触れられていました。
この当時(07年)にもすでに社会問題化して広く知られてたんですね。
最近知ったので、バブルの負債が今になって表面化してるのかと思ってたのですが、さにあらずのようで。

そうすると限界ニュータウン探訪記の新味というのは、乱脈な土地開発を告発するというより、限界ニュータウンの実地に足を運んで生々しい現状をレポートし、あまつさえ自ら限界ニュータウンに住むというところにあるんだなぁと今更のように思い至りました。

話題転換。
お酒が好きで、このごろはクラフトビールに食指を伸ばしているのですが、年季明け(?)のお祝いにちょっとお高めのビールを開栓してみました。

……?(アレ)
こんなもの? なんかジュースみたい。全然味がしないんだけど。
たまたまハズレかと思い、別の一本を開けてみたのですが、これも空振り。
う~ん、どういうこと??

そこでリファレンスにしている激ウマ保証の「インドの青鬼」を開栓。
圧倒的なフレッシュ感と焼けつくようなニガミを期待して喉に流し込む―――ッ、が!
(……全然味がしない)

ここに来て、ビールがマズイのではなく自分の味覚がおかしくなってることに気が付きました。
コロナにかかった時みたいに、味や香りが全くしない、ということは無いのですが、どうも繊細な風味を感じ取ることができなくなってるみたいです。
肉体労働者は味付けの濃いものを好むみたいなことを耳にしますが、慢性疲労が味覚に影響を及ぼしている、とかでしょうかね…。

休暇に入ってすぐ健康診断を受けたのですが、高血圧気味だったのでそこに関係するのか気になっています。

前にソルジェニーツィンの「収容所群島」を読んで、酷いなぁ、こいつは人類史上に残る悲惨なことだとシミジミ思ったものです。
しかしある意味ではその稀有な経験が踏み台となり、ソルジェニーツィンをノーベル賞に届かせたのでは?と不敬なことも考えたりしていました。

ワナビ気質な私は、そんな経験を乗り越えれば自分も世界中の人に響くような文学作品が書けるのではないかと不遜にも想像したものですが、労使協定(特別条項付きw)ギリギリくらいの残業で本も読めなくなる程度の文章能力ではムリムリムリムリカタツムリですね。

逆(?)に、もちろんソ連の強制収容所には比肩しませんが、日本のブラック労働も時に自殺者が出るほど過酷さがあるので、これを文学作品に昇華する人がいずれ出てくるのではないかという予感がしています。

写真の神様にもやはり前髪しかない

最近とんとん拍子に欲しかった写真集が手に入ったので、これまで眠っていた収集欲が頭をもたげて来ています。

筆頭は、植物写真家として高名な山村雅昭の「花狩」(88年)
出来れば「植物に」(76年)も欲しいですが、市場から姿を消しているとおぼしい。
市場価格も一万五千円くらいとこなれていて、今すぐにでもGETしたいところですが、今月は2冊も買ってしまったのでちょっと自重中。

ところで山村雅昭氏も「花狩」を絶筆に出版前に自殺されています――。
作家も芥川龍之介、太宰治、川端康成と枚挙にいとまがないですが、写真家の自殺率というのも実は高いのか……。

私の写真集収集の趣味は後悔の歴史でもあります。
当時の自分に言ってやりたい。「欲しいと思ったら即買え」

動物写真家の宮崎学さんの「死 Death in Nature」という写真集があります。
死んだ鹿やタヌキが自然に還るまでを克明に記録したものです。
現代の九相図とでも言うべき衝撃的な内容ですが、それでいて不思議と全くグロくなく、自然の調和の美しさに感嘆します。

10年以上前だと思いますが、それをたまたま書店で手に取ってたいへん感銘を受けました。
受けた――、ハズなのですがしばらく忘れており、ふと今になって思い出し調べたら、既に絶版で古書市場ではたいへん高価になっていました。

もう一つ!
水俣を撮ったことで知られている、世界的に著名な写真家ユージン・スミスの助手も務めた森永純の「河‐累影」(78年)
これも10年くらい前になるでしょうか、友達と中野ブロードウェイに遊びに行った際にまんだらけのショーウィンドウに展示されているのを見たのです。
確か¥22,000でした。

ひとりで来ていたら確実に手に取ったと思いますが、大型本なので、友と連れ立って歩くのに手がふさがって不便だと思いスルーしてしまいました。
しかしその後なぜか忘れ、今に至るまで中野ブロードウェイを再訪することもなく……。

大型書店の棚を覗けば数多くの写真集が並んでいます。
時の経過とともにその後プレミアムが付くのか、特に何も無く忘れ去られるのかは分かりませんが、定価はある意味バーゲンセールの値札のようなもの。
もしも少しでも心に残る本があれば、迷わずGETするのが良いでしょう。
たぶんそれは一期一会の出会いです。

清野賀子-至るところで 心を集めよ 立っていよ

ついこの前、清野賀子のTHE SIGN OF LIFEをレポしたところなのですが、ウォッチしていた二作目(そして絶筆の)「至るところで 心を集めよ 立っていよ」の最安値が2万台になったので光速でポチってしまいました。
一年以上ウォッチしていてずっと下がらなかったのに、手に入るときはこうもトントン拍子にいくものかと思います。

本のタイトルはパウル・ツェランという詩人の作品から採ったようです。
有名な詩なんですかね?
清野さんはタイトルを決める前に亡くなってしまったそうなので、編集者がなんかいい感じに選んだんでしょうね。

サイズなのですが、「THE SIGN OF LIFE」に比べてだいぶ小さいんですよね。
定価も「THE SIGN~」が7千円に対して、半額の¥3,500でした。

内容もかなり差があって、一作目が中判カメラで2000~01年の間に日本の各地で撮った写真を収めているのに対して、本作は年代は不明ですが東京を中心に小型カメラで撮った写真を収録しています。
前作がバシッと構図を決めた絵画的作品だったのに対して、ややラフなスナップ写真で構成されています。
もっとも顕著なのは前作に決してなかったもの――、人物写真が少ないながら(数えたところ5枚)収められています。








この本を作成中にお亡くなりになったので、何か死に関係するメッセージが含まれていないかと勘繰ってしまうのはヒトの性。
しかしそういう匂わせを見つけるのは難しいですね。

ただ読んでいて気が付くのは、芭蕉の木と学校のような建物、団地が何度も登場していることですね。
芭蕉は建物の中から撮られたものもあり、この学校のような建物にゆかりがあることを伺わせます。

全くの想像ですが、清野さん母校ではないでしょうか?
そして団地は彼女の住まい、もしくは近所の風景だったのでは?

写真を撮りながら自身の在りし日に思いをはせていたのではと、何の根拠も無いのですが思ったりします。
私の母校には芭蕉の木は生えていませんでしたが、それでもひどく郷愁を誘われる写真だからです。

2022年の読書を振り返って(2)「食人の形而上学」

この記事の続き。元記事はこれ

あまりに難解(というか使われている用語の意味が分からない…)なので、読み終わるのにかなりの時間がかかりました。
しかしどうにか除夜の鐘を聞く前に読了。
と言ってもこれを読了と言ってよいのか……?
とにかく目は通した、というのが正直なところです。

やはり最後まで読んでも「こういう民間伝承があるので、パースペクティヴ主義を提唱するに至った」みたいな具体的は話は無く、概念をいじくり回すような「形而上学」的な議論に終始しました。
その議論があまりにワケワカメなので、並行して文化人類学やポスト構造主義についての本やサイトを副読書として参照しました。
そちらの方に今まで知らなかった新鮮なアイディアがあり、この本から自体というのではないですが、知的好奇心を得るきっかけとしては良かったのかな?と思います。

帯にレヴィ=ストロース×ドゥルーズ+ガタリ×ヴィヴェイロス・デ・カストロとあるので、まずはレヴィストロースから攻めました。

レヴィストロースは私でも聞いたことがある、高名な文化人類学者で、構造主義を生み出して思想界に絶大な影響を与えたスゴイ人ですね。
アマゾン原住民の親族研究で、近親相姦を回避する結婚ルールに数学的パターンが存在することを発見しました。
原住民のなかに数学者がいるはずもなく――、世の中には目に見えない構造があり、人々は数学的根拠を意識することなくそれを実践しているということを明らかにしたのです。
また「野生の思考」あるいは「ブリコラージュ」ということも言い、アマゾンの人たちが身近な事物の関係性を比喩として用いて、上記のような見えない構造の実践を行っていることを示しました。

つまりおとぎ話のような神話を信じて、乱脈に生きているとタカを括っていたアマゾン原住民が、実は精緻な数学的構造を持った行動様式を持っていて、彼らなりの思考様式でそれを誤りなく実践していることが分かったのです。
これはそれまでの西洋中心の思想界にガツンとインパクトを与え、それ以降の20世紀の思想の潮流は多文化主義&構造主義(事物の裏にある見えない構造を見つけること)になっていきました。

私が思うに、ヴィヴェイロス・デ・カストロは野生の思考をインディオの狩猟に当てはめて、彼らの身近なシンボル(バク、ペッカリー、ジャガー、とうもろこしなど)を用いた比喩による言説と実践を研究して、背後の構造を明らかにしようとしている。
その構造がパースペクティヴ主義なのか、パースペクティヴ主義はその構造を解き明かすための道具なのか、私の薄い理解では判然としませんでしたが……。

次にジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ。ポスト構造主義を代表する学者ですが、とにかく何を読んでも良く分からなかった……。
何となくの理解ですが、哲学する上での土台を整理する哲学……、みたいな。

古今様々な哲学者がいましたが、彼らはてんでバラバラの前提条件に立って議論しているので、同一の物差しを持って良し悪しを議論することはできない。
曰く、「内在平面」「概念的人物」「哲学地理」の三つが重要である。

  • 「内在平面」――は、何を暗黙の了解としているかということ
  • 「概念的人物」――は、どういう立場に立って議論しているのかということ
  • 「哲学地理」――は、その哲学が生まれた歴史的地理的背景

これらの違いを意識しないとまともな議論にはならないよ、ということを主張していたようです。

たぶんヴィヴェイロス・デ・カストロはこの本の中で、自分のパースペクティヴ主義は(ポスト構造主義と呼ぶに相応に――?)上記の要請を満たしているよ、ということを言いたかったのでしょう。
それが「生成」だの「リゾーム」だの「分子的」だのと言ったドゥルーズ語で語られるので異様に難解な議論の様相を呈しているのではないかと思います。
(自信無し……)

全然的外れかも知れませんが、ドゥルーズとガタリのアプローチを見て、大学時代に物理のコースで学んだ解析力学を思い出してしまいました。
とても形式的で難解だったので正しく理解してないと思いますが、確か「色んな座標系で表現されうる物理の方程式を、座標系の取り方によらない一般的な形に再形式化する」みたいな話でした。
何か空を掴むような具体性のない議論で苦手でしたねー。
しかしそれが便利で美しいと感じる学者もいっぱいいる(だからこそ大学の授業になってるのですが)ので、ドゥルーズとガタリの理論を通して文化人類学を再形式化したいというのも、同じような欲求が働いているのでは?とボンヤリ思います。

レヴィストロース、ドゥルーズ&ガタリ、ヴィヴェイロス・デ・カストロと見てきて、数学コンプレックスというのも透けて見えるように思います。
その辺り「ソーカル事件」で思いっきりバカにされてしまいましたが、ポストモダン哲学に限らず、人文科学は自然科学に対して引け目を感じる部分があったりするのかな……?と。

数学の証明のように厳密な論理展開が出来れば、誰にとっても納得の理論を構築することができ、「文句があるなら言ってみやがれ」と胸を張ることが出来ますが、文化人類学のごとき曖昧なものを対象とする学問ではなかなか難しい。
きっとどこかで「それってあなたの感想ですよね」とブッスリ刺されてしまう不安を抱えているんでしょう。
それを防ぐための理論武装が上のようなドゥルーズとガタリの理論なんじゃないでしょうか。

ただ、論理的厳密さはないけど学者個人のキャラクターに基づく洞察から生み出された理論というのも、外野から見る分には面白いですけどね。
(フロイトの理論とかそうではないですか?)

2022年の読書を振り返って(1)「煉獄のなかで」

この記事で紹介したソルジェニーツィン「煉獄のなかで」とエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ「食人の形而上学」を読了したので、感想を記しておきたいと思います。

どっちにしようか……。
まずは「煉獄のなかで」のほう。

ソルジェニーツィンの著作は自身の体験が下敷きになっているといいます。

  • 「イワン・デニーソヴィチの一日」はカザフスタンの特別収容所での肉体労働
  • 「ガン病棟」は流刑先のタシケントで受けたガン治療
  • 「煉獄のなかで」はシャラーシカ(※)と呼ばれる特別収容所での経験

※シャラーシカではデストピアよろしく、収監した科学者や技術者を極秘の研究に使役していました。
生きて出られるか分からない収容所のなかでは待遇が良いので、作中でルービンがダンテを引用して「(地獄の)第一圏」と呼んでおり、原題を直訳すると「第一圏」なのですが、日本人にはあまりに馴染みが無いので「煉獄」という表現を採用したそうです。

「ガン病棟」は私が今まで読んできた小説の中でナンバーワン(遠藤周作『沈黙』と悩むが)の作品です。
ほぼ同時期に執筆され、同じく文庫本2冊分の大著の「煉獄のなかで」は「ガン病棟」と並ぶ感動を期待したのですが……。

「ガン病棟」は基本的には主人公コストグロートフの闘病記録であり筋が分かりやすいです。
それに比べて「煉獄のなかで」は、まずだれを主人公と呼ぶべきか迷います。

たぶんネルジン。しかし、ルービンやソログジンも重要な役割を果たしているし、物語のきっかけとなったヴォロジンも影の主人公と言えなくもないです。
下は収容所の雑役夫、上は髭の親父(スターリン)まで多種多様なキャラが登場し、多声的重層的にストーリーが進行するので筋を追うのが大変でした。

そしてロシア人の名前の難しいことと言ったら……。
登場人物の多さに加えて、名前、父称、愛称が入り乱れて、「一体だれが言ったセリフなの?」と読み返して確認することしきりでした。
そのうち諦めて雰囲気で読み進めるようになったので、ストーリーをちゃんと理解してるのか不安ですが、ごくごく簡単に書くとこんなお話しでした。

 クリスマスイブの夜、外交官のヴォロジンは世話になった医学教授が当局にマークされていることを知り、彼の家に匿名で電話を掛ける。
 シャラーシカの囚人で軍隊上がりの数学者ネルジンは、言語学者のルービンと人の声をグラフィカルに分析する「声紋法」の研究をしている。
 彼は助手の(囚人ではない)女の子シーモチカとねんごろの関係になりつつあるが、実は結婚していて、長い間妻とは音信不通である。
 そんな中、収容所の上層部はスターリン肝煎りの「秘密電話装置」の進捗がはかばかしくなく、迫る期限に冷汗三斗の状態である。
 上層部は優秀なネルジンを秘密電話装置のチームに異動させようとするが、彼は持ち前の反骨心からそれを拒み、一般収容所への追放が決まってしまう。
 優秀なエンジニアのソログジンは秘密電話装置の決め手となる設計を完成させるが、設計書を奪われて用済みとされることを恐れて破棄する。
 逆に「設計図は頭の中にある」と大胆にも上層部と交渉して身分の保証を得る。
 さて、ルービンの元にヴォロジンの密告の通話の分析が持ち込まれ、ネルジンと協力して容疑者をヴォロジンを含む二人にまで絞り込む。
 学問的厳密さを求めて渋るルービンの想いも空しく、当局は乱暴にも二名とも逮捕してしまう。ルービンは罪の意識に苦しむ。
 ヴォロジンは逮捕され、天国から地獄に落ちるような転落を味わう。
 ネルジンの妻は大変な労苦の末にネルジンの収容所を突き止め、ついに二人の面会が実現する。
 彼は自分を忘れるように言うが、妻は操を誓う。
 そして彼はシーモチカにまだ妻を愛していると決別を告げ、シベリア彼方の一般収容所に去って行くのであった――。

それにしても「声紋法」の説明はとても詳しく、現在の音声符号化に通じる内容で、ソ連の特別収容所でこのような先進的な研究が行われていたということに驚きを覚えます。
あまりに子細なので、ソルジェニーツィン自身がその研究に従事させられていたことを伺わせます。

ソルジェニーツィンがこの作品を通して言いたかったことは、表面的には科学者や技術者が強制的に汚い研究に従事させられていることへの告発かと思います。
もう少し掘ると、色々な囚人がいるが、中には甘言には騙されない骨太の囚人がいて、国家の抑圧にすら負けず不利を承知で自分の信念を通そうとすること――、だと思います。
ですが、もっとも言いたかったのは、こんな収容所でも案外楽しくやっているぜというポジティブさではないかと思います。

収容所が舞台なので、いかにも陰鬱そうなのですが、ネルジンとシーモチカがいちゃついたり、ソログジンは女職員とW不倫したりなど艶っぽい部分もあります。
そう言えば「ガン病棟」でも、コストグロートフが看護婦とねんごろになったり、ガンの少年が明日乳がんの手術のため乳房を切らなくてはならない少女に、最後の思い出におっぱいを吸わせてもらう、などと油断していたら椅子から転げ落ちそうになるエピソードがあります。

そういう「地獄みたいな所でも、人生灰色一色じゃないよ」というメッセージが、仕事とか人間関係が上手くいかなくて苦しんでいる人に希望を与え、困難に立ち向かう勇気を鼓舞するところにソルジェニーツィン文学の素晴らしいところがあるのだと感じています。

ところで去年からのロシアのウクライナ侵攻により、ソルジェニーツィンの名がプーチン大統領のロシア大国主義の思想的背景として紹介されるのをしばしば耳にするようになりました。

う~ん、ごく皮相を捉えればそうなのかもですが、ソルジェニーツィンの本質ではないんでないの?と思います。

よく引用されるのが「甦れ、わがロシアよ」ですが、たまたま手に入れていたので該当箇所をお見せしたいと思います。


読めば明らかにロシアとウクライナの統合を志向していますな……。

「野生の原野」に上がっている、クリミア、ノヴォロシア、ドンバス。

クリミアは言わずもがなロシアの後ろ盾で分離独立しました。
ノヴォロシアはウクライナ侵攻の口実となった「オデッサ騒乱」の舞台です。
ドンバスは戦争の激戦地として頻繁にテレビ報道されています。
見事にウクライナのあやふやな輪郭を言い当てているではないですかー。三十年の時を経て不安は現実のものになっています。

しかししかし、力ずくで併合せよなどとは全く書いておらず、それどころか「実際に分離を望むなら、それを無理に抑えることは誰にもできない。」と留保しています。

思えばソルジェニーツィンの文学とは、力ずくの政策に対する異議申し立てそのものです。
まだ存命だったとしたら(百歳超えてますが…)、プーチンの尻馬に乗ってウクライナ併合に迎合するなんてことは有り得ないでしょう。
逆に地獄のような暮らしを強いられているウクライナの戦争被害者を励まし、抑圧者に対抗する勇気を鼓舞するのではないでしょうか。

(「煉獄のなかで」の記事が長くなってしまったので、「食人の形而上学」については別に分けて載せようと思います)

清野賀子-THE SIGN OF LIFE

写真家、清野賀子の写真集「THE SIGN OF LIFE」を入手しました。

以前、須田一政のTwitterアカウントでツイートされているのを見て興味を持ち、ネット上で見れる作品を見るにつけ、その静謐さに惹きつけらるようになりました。
17年に東京都写真美術館に見に行った「TOPコレクション 東京・TOKYO」にも彼女の作品は収録されていました。

しかし何の印象も無かった……。押しつけがましさというのが一切ない(言い換えれば「地味」?)作風ですね。

自殺だそう…。どういう経緯かは何の情報も見つからず分かりません。ただただ惜しいと思います

清野さんは09年に亡くなっていて、生前遺した写真集は2冊のみ。
一冊目はこの「THE SIGN OF LIFE」(02年)、二冊目は「至るところで 心を集めよ 立っていよ」(09年)

もともと定価7千円の「THE SIGN ~」ですが中古市場では結構な高額になっていて、Amazonなんかで見ると複数の出品者から4万円台を最安として15万円~150万(?!)など無茶苦茶な値付けがされていました。
たぶん150万は桁を見間違えてポチるのを期待しているんじゃないかと思います……。
4万円でも高価に過ぎるので一年以上様子見していたのですが、ある時2万円台で出品者が現れたので、光速でポチりました。

「本当に届くのか? 状態は綺麗なのか?」と届くまで不安でしたが、美品が届き大変満足しています。







人物を撮った写真は一枚も無し。
写真集の形も珍しい横長なのは全ての写真が横向きだからですね。
01~02年の間に日本各地を中判カメラで撮ったものが収められています。
中判だからか、どの写真も精緻で美しいですね。

どこにでもあるような、殺風景な眺めが大半を占めているのですが、それでいて印象深く、心が澄むような静謐な感情を覚えるのはなぜでしょう?
国旗のような画面の分割パターンが目に付きます。

その絵画的な構図の安定感がそうさせるのかな?とも思います。
画面に見られる静かな美しさは、清野さんが心の平安を希求していた表れなのかなと、事情もよく知らないのですが思い巡らしてみたりもします。

読んで、二冊目の「至るところで~」もぜひ手に入れたいと思えてきました。
しかし今の市場価格はちょっと手が出ないので、気長に機会を待とうと思います。

限界ニュータウン -荒廃する超郊外の分譲地-

YouTubeに「資産価値ZERO -限界ニュータウン探訪記-」というチャンネルがあるのですが、非常に面白いです。
おもに千葉県北東部に存在する「限界ニュータウン」を散策し、放棄されて荒れ果てるがままとなった分譲地を訪ね歩くものですが、地味な風景の裏に渦巻く欲望や不動産業界の闇が見え隠れして実に引き込まれる内容です。

この度、その動画の作者(吉川祐介氏)が、YouTubeで紹介している内容を本にして出版されました。
それがこの本「限界ニュータウン -荒廃する超郊外の分譲地-」です。
Amazonで予約し、首を長くして待っていたのですが10月に入って届きました。
土日でかじりついて即完読!
限界ニュータウンが抱える様々な問題が整理されて載っているので、分かりやすくスーッと内容が入ってきます。
それだけに「ヤバイでしょ?」「もう詰みじゃない?」という感想しか出てきません……。

お勧めしたい本なのですが、書いてる内容はYouTubeと同じなのでまずは動画を見た方がとっつきやすいかも知れません。
動画の方が分譲地が放置されて、ボウボウに荒れてたり不法投棄の餌食になっている様子がより鮮明に伝わります。

本にも上のような感じで写真が載っていますが、やはり白黒なのでインパクトがいま一つですね。

一章「限界ニュータウンとはなにか」、二章「限界ニュータウンで暮らす」はYouTube動画の内容をほぼなぞったものなので、それほど目新しさは感じませんでした。
しかし三章「限界ニュータウンを活用する」は目新しい内容で「おっ!」と思わされます。
もはや進退窮まったかと思われる限界ニュータウンにまだ活用法があるという……。
何名かの事例(親子二代での活用、リタイア後の定住地として、YouTuber)が紹介され、それぞれ容易ではない感じはしましたが、応援したくなりました。
他にもコラムで、限界分譲地を扱う不動産屋さんの話や、限界ニュータウンで育った人の話があり、これらは動画には出てない話だったので大変興味深く読みました。

YouTubeの教養系チャンネルはゆっくり茶番劇的なものばかりだと思っていましたが、資産価値ZEROはしっかりと取材しかつエンタメとしても面白い稀有なチャンネルだと思います。
お仕事関係の愁訴がブログやこの本の中でもチラリと見えたりしますが、これからも素晴らしい動画を作り続けて頂きたいと願っています。

最近読んでる本

テレワークが定着してしまい、通勤が無くなったので、「電車の中で本を読む」という習慣が無くなってしまいました。
コロナ前に大著「アンナ・カレーニナ」を読むぞと意気込んでいたのですが、中巻の途中で止まってしまってます。
もうどんな話だったか忘れつつあります……。

読まないのに本欲しい欲は健在で、積読を増やしていってしまってます。

まずはコレ。ソルジェニーツィンの「煉獄のなかで」

これは神保町まで足を運んでも見つけられず、結局ネットで注文しました。
上等の酒の開栓を惜しむように最初の頁を繰ったのですが、群像劇というのか「ガン病棟Part2」を期待して読んだら、筋が捉えがたく、有象無象の登場人物の織り成す会話に辟易してページを捲る手が進まなくなりました。
たぶんもう少し読み進めれば面白くなってくるんじゃないかと思いますがー。

あとは珍しく小説ではなく人文科学系の本で「エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ」という、舌を噛みそうな名前のブラジルの文化人類学者の2冊。
「インディオの気まぐれな魂 (叢書 人類学の転回)」「食人の形而上学: ポスト構造主義的人類学への道」


帯が怪文書のそれ…

この本を手にしたのはたまたま付けていた放送大学のチャンネル(全く見るつもりは無かった)で、文化人類学の講義をやっており「パースペクティヴ主義」について耳にしたことによります。
パースペクティヴ主義とは「食人の形而上学」の言葉を借りればこういうこと―――。

    人間、それも規範的な状態にある人間は、人間を人間として理解し、動物を動物として理解する。精霊に関していえば、こうした通常は眼に見えない存在者をみることは、その「状態」が規範的ではない——病気である、もしくはトランス状態か他の副次的な状態である——ことを確かに意味するのである。獲物は、人間を精霊や捕食者としてみるのだが、捕食動物と精霊の側からみれば、人間は獲物である。ペルーのアマゾンに住むマチゲンガについて、「人間存在は、自らをそのようなものとしてみる。しかしながら、月、蛇、ジャガー、そして天然痘の病原体は、人間をバクやペッカリーとみなして殺すのだ」と、ベアーは指摘している。
    われわれが非人間とみなすもの、実はそれ自身(そのそれぞれの同種)こそが、動物や精霊が人間とみなしているものなのである。それらは、家や村にいるときには、人間に似た存在として感じ取られる(あるいは、生成する)。そして、その振る舞いや特徴は、文化的な外観によって理解される。そしてそれらは、自らの食べ物を、人間の食べ物のように理解するのである(ジャガーは、血をトウモロコシのビールとみなすし、ハゲワシは、腐った肉に沸く虫のことを焼き魚とみなす、など)。
    それらは、身体的な特性(毛並み、羽、爪、くちばし、など)を、装身具や、文化的な道具とみなす。それらの社会システムは、人間的は制度にのっとたやり方で組織される(首長、シャーマン、半族、儀礼…)。

意味わかりますか……??
科学的でもなく、誰の視点なのかもよく分かりませんが、「人間と動物の関係は絶対的なものではなく、転倒しうる相対的なものだとアマゾン原住民は考えている」と理解しています。
一種のアニミズムだと思いますが、黒澤明が映画化した「デルス・ウザーラ」のなかで、デルスが動物のみならず水や焚火さえも人とみなしていたことを思い出すと、シベリアとアマゾンという地球の裏表ほど離れた場所で、通底する同じ思想を持っていることに不思議な驚きを覚えました。

また胎内記憶や中間生記憶といった、赤ちゃんが生まれてくる前に持っている記憶について興味があるのですが、パースペクティヴ主義と強く共鳴するものがあるように感じます。
胎内記憶のエピソードで良く登場するのは、お風呂、プール。これは言うまでも無く羊水のことを表しています。
滑り台を下って来たとかドアを開けて外に出てきた、というのも産道のことを言っているのだと思います。
お腹の中でお菓子を食べた、積み木で遊んだ、色々な紐があったというのも胎盤やへその緒のことでしょう。
こうした言い換えはパースペクティヴ主義の「身体的特性を文化的な道具と見なす」に良く対応しているように思われます。

こういうことをつらつら考えるにつけ、パースペクティヴ主義には人文科学上幅広く応用できるポテンシャルがあるように思われ、自然科学における相対性理論のようなエピックな思想であるように感じられます。
んで、ヴィヴェイロス・デ・カストロはそのパースペクティヴ主義の提唱者です。

そういった動機づけで、まずは「インディオの気まぐれな魂」の方を読みました。
絶版本だったので、ネットで古本を取り寄せたのですが、思いっきり傍線やマーカーが引かれており、前の持ち主が勉強熱心であったことをうかがわせました。
この本は薄かったのですぐに読み終えたのですが、残念ながらパースペクティヴ主義についての言及は殆どありませんでした。

ポスモダ(ポスト・モダン)文体なのかカルスタ(カルチュラル・スタディーズ)文体なのか分かりませんが、読みづらかったです……。
なので正確ではないかと思いますが、言わんとすることは以下のようなことだったと思います。

インディオは進んでキリスト教に改宗しながらも、血生臭い復讐や人肉食を続けていた。
宣教師の目からするとまことに気まぐれで、一貫性を欠くように見えたがそうではない。
インディオにはインディオの論理が存在する。
それは復讐や人肉食は他者を取り込んで自己を改変したいという欲求の現れなのである。
キリスト教を進んで受け入れたのも同じく「他者への開かれ」によるものである。

「ホンマか~? インディオをリスペクトしすぎやないか~?!」と思ってしまいますが、そこにはスペイン人がインディオを抑圧しまくった反省も含まれているのかなと思います。
「復讐! 人肉食!!」⇒「他者への開かれ」の変換が若干のパースペクティヴ味を感じなくもないですが、この本では直接の言及は無かったように思います。

で、それでは知識欲が満たされなかったので手に取ったのが「食人の形而上学」
こちらは流通してるので新品をGET!
おどろおどろしいタイトルもそうですが、「インディオの気まぐれな魂」に比べてアングラ方向に悪ノリした本の造りになっています。
元からなのか翻訳がおかしいのか分かりませんが、わざわざ持って回ったような言い回しや衒学的な学術用語に満ちていて「インディオ」に輪をかけて読み辛いです。

横文字の濫用! これがポスモダのアトモスフィアを醸しだす。
「ヘゲモニー」覇権か権威と訳しておけば良くないですか? 「タクソノミー」ロボトミーの友達かと思いましたよ。単に分類法で良いですよね?
これには思わず「ソーカル事件」が頭をよぎります。(ソーカルという意地の悪い物理学者が、難解な科学用語を散りばめたポスト・モダン風の論文(中身はでたらめ)をでっち上げて、現代思想系の学術誌に投稿したらそのまま掲載され、プゲラしたという事件)

結構な大著でまだ5分の1程度しか読み進められていません。
ちょっとどのくらいかかるのか、諦めて本棚の片隅に積まれるハメになるのか分かりませんが、パースペクティヴ主義の妙味を会得したいので「ノエマ」だの「リゾーム」だの、雪崩のごとき謎の用語達をスマホで調べつつ読み進めたいと思います。

インカ・アンデス本

けっこう前に、紀行漫画家の芝崎みゆき先生の本(この記事)を紹介したのですが、この度新刊が発売されたので勝手に宣伝します。

2年前くらいからか3冊の執筆が宣言され、にわかにブログの更新が頻繁になりました。
体調不良と闘いながら執筆を続ける様子が日々アップされて、楽しそうな絵柄とは裏腹にこのようなご苦労があったのかと、心配しつつ応援していたのですが、ついに2冊が出版となり、おめでとうございます!

「アンデス・マチュピチュへっぽこ紀行: インカ・プレインカ遺跡の旅」と「古代インカ・アンデス不可思議大全」です。
今回もマヤ・アステカと同じく紀行本と神話・歴史本のセットですね。
どちらか一冊と言われたら「へっぽこ紀行」の方を読んでいただきたいとブログに書いてましたが、私は神話を頭に入れてから読みたいので、「へっぽこ紀行」は後に読もうと思います。

3冊目のイースター島の本も楽しみですね。
もう執筆は終わってるそうなので、ゆっくり休んでいただきたいと思います。