ブルーバックスの思い出

読書家を自認していたものですが、最近本を読む気が起こりません。
触れる活字といったら、ネットニュースとかマンガといった体たらくですね。
過労が身体のみならず精神にも不調をのこしていったものか……?

リハビリに軽いものをと思いブルーバックスから二冊をチョイスして注文しました。
それが「超常現象の科学」「怪談の科学」です。

どちらも何とも良いカバー。
ブルーバックスは講談社が63年から出版している科学の新書シリーズで、科学者に憧れていた私は子供のころから慣れ親しんでいました。
大きな書店に行くと、本棚の一角がブルーバックスのコーナーになっていて、興味をそそるタイトルが並ぶドラえもん色の背表紙に夢中になったものです。

私が初めて読んだブルーバックスは「真空とはなにか」というタイトルで、忘れもしない、先日紹介したドスコイさんの動画の中にもあった、真駒内のミュークリスタル2階に入っていた書店で買いました。

内容は、トリチェリとかマルデブルクの半球とかの真空の歴史から入り、後半では最新科学によるとミクロ的には真空は実は空っぽではなく、電子と陽電子のペアが常に生まれては消える場であるという衝撃の真実が明かされます。
何も無いはずの真空に、実は構造があるということに当時の私はいたく感動し、自然の秘密をもっと知りたいとブルーバックスを読み漁るようになりました。

ちなみに背表紙のカラフルな三角マークはカテゴリーを表していて、しおりに印刷されてるのですが以下の分類です。ちなみにしおりの片面には科学者の金言みたいなのが書かれてます。

  • 紫‐物理学
  • 赤‐数学
  • 緑‐生物学
  • 黄‐化学
  • 青‐天文・宇宙・地学
  • ピンク‐医・薬・心理学
  • 茶‐技術・工学
  • オレンジ‐その他

ここのことね

物理の本をよく読んでいたので、自然と都築卓司先生(横浜市大名誉教授、故人)の著作を手に取るようになります。
都築先生はブルーバックスでは最多の17冊を刊行されてるそうで、読者の興味をそそるユーモラスな語り口と平易な説明で人気を博していました。
著作リストを見ながら、私が読んだものをピックアップすると――

  • 『四次元の世界』(69年)
  • 『マックスウェルの悪魔』(70年)
  • 『タイムマシンの話』(71年)
  • 『はたして空間は曲がっているか』(72年)
  • 『10歳からの相対性理論』(84年)
  • 『10歳からの量子論』(87年)
  • 『時間の不思議』(91年)

この年代の幅だけ見ても長期にわたって執筆活動されてきたことが分かります。
なかでも一番印象に残っているのは「タイムマシンの話」ですね。
冒頭、自分の乗る飛行機が墜落することをたまたま手に入れた「明日」の新聞で知り、辛くも難を逃れるというエピソードが語られます。
実際に起こった航空事故(全日空羽田沖墜落事故 66年)を下敷きにしていて、緊張感漲り、これだけでもSF小説として成立するのではないかと感じるような手に読み応えあるプロローグでした。

あと名脇役じゃないですが、永美ハルオさんが挿絵を手掛けていたものが多いですね。
コミカルな絵柄が絶妙にマッチして味わい深かったです。

他の著者で記憶に残ってるものとしては南部陽一郎(『クォーク』(81年))
ノーベル賞を獲った時には「あれ? この人の本読んだことあるぞ」と腰を浮かせました。
クォークという陽子や中性子といった原子を構成する粒子よりもさらに小さい微粒子を発見するまでの、理論・実験両面からの探究を描いた本だったような気がしますが、都築先生のような遊び心あふれる文体ではなかったため文章そのものは記憶にないですね。

もうお一人は中西襄(『相対論的量子論―重力と光の中にひそむ「お化け」』(81年))
ブルーバックスは電車の中で気軽に読めるような新書なので、難解な理論を数式を使って子細に説明するということはできません(縦書きですしね)
なのでキャッチーな側面をごく皮相的に解説する形になる場合が多いと思います。
それは当然やむを得ないのですが、それでもこの本は場の量子論という超難解な理論の成立について、一般人でも流れを彷彿とさせられるくらいしっかり書いています。
時折挿入される科学者のエピソードもユーモアがあり、名著だと思います。
今でもたまに読み返したくなり、手放さずに本棚に置いている一冊です。

こうして手元にあるのを並べてみると、カバーデザインの変遷が見て取れますね。
左から80年、89年、92年刊行のものです。
一番左のデザインが創刊当時からので、マイナーチェンジしながら、だいたい70年代くらいまで受け継がれたのではないでしょうか。
真ん中は80年代な印象。この頃ブルーバックスに触れたので、このデザインが一番なじみ深いですね。
一番右は90年代以降だと思います。この頃になるとデザインが洗練されてますが特徴的なブルーの差し色が無くてちょっと寂しいですね。
近年はさらに装丁が洗練されてるようですが、手に取る機会がありませんな。

《哀しき過去》
さてブルーバックスを小脇に抱えていた科学少年もいつしか大きくなり、大学進学を迎えたのでした。
選んだのはやはり物理学科。

「物理法則に名を冠してやるぞ」と野心に胸を膨らませてくぐった校門。
ある日、窓から池が見える大きな講堂でオリエンテーションがありました。
忘れもしない、そこで特殊相対論のコマを持っていた講師がブルーバックスを揶揄する発言をしたのです!!
それを聞いて激しい憤懣を感じたことを今でも覚えています。

しかし……、今となってはその講師が正しかったと思います。
ブルーバックスは科学入門にあたっての、言わば離乳食のようなやわやわの書物。
大学では固いパンを飲み下さなければならないと暗に伝えたかったのでしょう。
実際、数式に満ちた大学の教科書は数学の苦手な私にはかなり手ごわく、不如意のうちに科学者を目指した少年時代の夢は色あせていったのでした。

それでも挫折感をさほど覚えなかったのは、その当時パソコンとインターネットが猛烈な勢いで勃興していたことがありますな。
その魅力は物理学への憧れを吹き飛ばすものがあり、卒業後はIT企業に就職、そのまま今に至るわけです。

2022年の読書を振り返って(2)「食人の形而上学」

この記事の続き。元記事はこれ

あまりに難解(というか使われている用語の意味が分からない…)なので、読み終わるのにかなりの時間がかかりました。
しかしどうにか除夜の鐘を聞く前に読了。
と言ってもこれを読了と言ってよいのか……?
とにかく目は通した、というのが正直なところです。

やはり最後まで読んでも「こういう民間伝承があるので、パースペクティヴ主義を提唱するに至った」みたいな具体的は話は無く、概念をいじくり回すような「形而上学」的な議論に終始しました。
その議論があまりにワケワカメなので、並行して文化人類学やポスト構造主義についての本やサイトを副読書として参照しました。
そちらの方に今まで知らなかった新鮮なアイディアがあり、この本から自体というのではないですが、知的好奇心を得るきっかけとしては良かったのかな?と思います。

帯にレヴィ=ストロース×ドゥルーズ+ガタリ×ヴィヴェイロス・デ・カストロとあるので、まずはレヴィストロースから攻めました。

レヴィストロースは私でも聞いたことがある、高名な文化人類学者で、構造主義を生み出して思想界に絶大な影響を与えたスゴイ人ですね。
アマゾン原住民の親族研究で、近親相姦を回避する結婚ルールに数学的パターンが存在することを発見しました。
原住民のなかに数学者がいるはずもなく――、世の中には目に見えない構造があり、人々は数学的根拠を意識することなくそれを実践しているということを明らかにしたのです。
また「野生の思考」あるいは「ブリコラージュ」ということも言い、アマゾンの人たちが身近な事物の関係性を比喩として用いて、上記のような見えない構造の実践を行っていることを示しました。

つまりおとぎ話のような神話を信じて、乱脈に生きているとタカを括っていたアマゾン原住民が、実は精緻な数学的構造を持った行動様式を持っていて、彼らなりの思考様式でそれを誤りなく実践していることが分かったのです。
これはそれまでの西洋中心の思想界にガツンとインパクトを与え、それ以降の20世紀の思想の潮流は多文化主義&構造主義(事物の裏にある見えない構造を見つけること)になっていきました。

私が思うに、ヴィヴェイロス・デ・カストロは野生の思考をインディオの狩猟に当てはめて、彼らの身近なシンボル(バク、ペッカリー、ジャガー、とうもろこしなど)を用いた比喩による言説と実践を研究して、背後の構造を明らかにしようとしている。
その構造がパースペクティヴ主義なのか、パースペクティヴ主義はその構造を解き明かすための道具なのか、私の薄い理解では判然としませんでしたが……。

次にジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ。ポスト構造主義を代表する学者ですが、とにかく何を読んでも良く分からなかった……。
何となくの理解ですが、哲学する上での土台を整理する哲学……、みたいな。

古今様々な哲学者がいましたが、彼らはてんでバラバラの前提条件に立って議論しているので、同一の物差しを持って良し悪しを議論することはできない。
曰く、「内在平面」「概念的人物」「哲学地理」の三つが重要である。

  • 「内在平面」――は、何を暗黙の了解としているかということ
  • 「概念的人物」――は、どういう立場に立って議論しているのかということ
  • 「哲学地理」――は、その哲学が生まれた歴史的地理的背景

これらの違いを意識しないとまともな議論にはならないよ、ということを主張していたようです。

たぶんヴィヴェイロス・デ・カストロはこの本の中で、自分のパースペクティヴ主義は(ポスト構造主義と呼ぶに相応に――?)上記の要請を満たしているよ、ということを言いたかったのでしょう。
それが「生成」だの「リゾーム」だの「分子的」だのと言ったドゥルーズ語で語られるので異様に難解な議論の様相を呈しているのではないかと思います。
(自信無し……)

全然的外れかも知れませんが、ドゥルーズとガタリのアプローチを見て、大学時代に物理のコースで学んだ解析力学を思い出してしまいました。
とても形式的で難解だったので正しく理解してないと思いますが、確か「色んな座標系で表現されうる物理の方程式を、座標系の取り方によらない一般的な形に再形式化する」みたいな話でした。
何か空を掴むような具体性のない議論で苦手でしたねー。
しかしそれが便利で美しいと感じる学者もいっぱいいる(だからこそ大学の授業になってるのですが)ので、ドゥルーズとガタリの理論を通して文化人類学を再形式化したいというのも、同じような欲求が働いているのでは?とボンヤリ思います。

レヴィストロース、ドゥルーズ&ガタリ、ヴィヴェイロス・デ・カストロと見てきて、数学コンプレックスというのも透けて見えるように思います。
その辺り「ソーカル事件」で思いっきりバカにされてしまいましたが、ポストモダン哲学に限らず、人文科学は自然科学に対して引け目を感じる部分があったりするのかな……?と。

数学の証明のように厳密な論理展開が出来れば、誰にとっても納得の理論を構築することができ、「文句があるなら言ってみやがれ」と胸を張ることが出来ますが、文化人類学のごとき曖昧なものを対象とする学問ではなかなか難しい。
きっとどこかで「それってあなたの感想ですよね」とブッスリ刺されてしまう不安を抱えているんでしょう。
それを防ぐための理論武装が上のようなドゥルーズとガタリの理論なんじゃないでしょうか。

ただ、論理的厳密さはないけど学者個人のキャラクターに基づく洞察から生み出された理論というのも、外野から見る分には面白いですけどね。
(フロイトの理論とかそうではないですか?)

2022年の読書を振り返って(1)「煉獄のなかで」

この記事で紹介したソルジェニーツィン「煉獄のなかで」とエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ「食人の形而上学」を読了したので、感想を記しておきたいと思います。

どっちにしようか……。
まずは「煉獄のなかで」のほう。

ソルジェニーツィンの著作は自身の体験が下敷きになっているといいます。

  • 「イワン・デニーソヴィチの一日」はカザフスタンの特別収容所での肉体労働
  • 「ガン病棟」は流刑先のタシケントで受けたガン治療
  • 「煉獄のなかで」はシャラーシカ(※)と呼ばれる特別収容所での経験

※シャラーシカではデストピアよろしく、収監した科学者や技術者を極秘の研究に使役していました。
生きて出られるか分からない収容所のなかでは待遇が良いので、作中でルービンがダンテを引用して「(地獄の)第一圏」と呼んでおり、原題を直訳すると「第一圏」なのですが、日本人にはあまりに馴染みが無いので「煉獄」という表現を採用したそうです。

「ガン病棟」は私が今まで読んできた小説の中でナンバーワン(遠藤周作『沈黙』と悩むが)の作品です。
ほぼ同時期に執筆され、同じく文庫本2冊分の大著の「煉獄のなかで」は「ガン病棟」と並ぶ感動を期待したのですが……。

「ガン病棟」は基本的には主人公コストグロートフの闘病記録であり筋が分かりやすいです。
それに比べて「煉獄のなかで」は、まずだれを主人公と呼ぶべきか迷います。

たぶんネルジン。しかし、ルービンやソログジンも重要な役割を果たしているし、物語のきっかけとなったヴォロジンも影の主人公と言えなくもないです。
下は収容所の雑役夫、上は髭の親父(スターリン)まで多種多様なキャラが登場し、多声的重層的にストーリーが進行するので筋を追うのが大変でした。

そしてロシア人の名前の難しいことと言ったら……。
登場人物の多さに加えて、名前、父称、愛称が入り乱れて、「一体だれが言ったセリフなの?」と読み返して確認することしきりでした。
そのうち諦めて雰囲気で読み進めるようになったので、ストーリーをちゃんと理解してるのか不安ですが、ごくごく簡単に書くとこんなお話しでした。

 クリスマスイブの夜、外交官のヴォロジンは世話になった医学教授が当局にマークされていることを知り、彼の家に匿名で電話を掛ける。
 シャラーシカの囚人で軍隊上がりの数学者ネルジンは、言語学者のルービンと人の声をグラフィカルに分析する「声紋法」の研究をしている。
 彼は助手の(囚人ではない)女の子シーモチカとねんごろの関係になりつつあるが、実は結婚していて、長い間妻とは音信不通である。
 そんな中、収容所の上層部はスターリン肝煎りの「秘密電話装置」の進捗がはかばかしくなく、迫る期限に冷汗三斗の状態である。
 上層部は優秀なネルジンを秘密電話装置のチームに異動させようとするが、彼は持ち前の反骨心からそれを拒み、一般収容所への追放が決まってしまう。
 優秀なエンジニアのソログジンは秘密電話装置の決め手となる設計を完成させるが、設計書を奪われて用済みとされることを恐れて破棄する。
 逆に「設計図は頭の中にある」と大胆にも上層部と交渉して身分の保証を得る。
 さて、ルービンの元にヴォロジンの密告の通話の分析が持ち込まれ、ネルジンと協力して容疑者をヴォロジンを含む二人にまで絞り込む。
 学問的厳密さを求めて渋るルービンの想いも空しく、当局は乱暴にも二名とも逮捕してしまう。ルービンは罪の意識に苦しむ。
 ヴォロジンは逮捕され、天国から地獄に落ちるような転落を味わう。
 ネルジンの妻は大変な労苦の末にネルジンの収容所を突き止め、ついに二人の面会が実現する。
 彼は自分を忘れるように言うが、妻は操を誓う。
 そして彼はシーモチカにまだ妻を愛していると決別を告げ、シベリア彼方の一般収容所に去って行くのであった――。

それにしても「声紋法」の説明はとても詳しく、現在の音声符号化に通じる内容で、ソ連の特別収容所でこのような先進的な研究が行われていたということに驚きを覚えます。
あまりに子細なので、ソルジェニーツィン自身がその研究に従事させられていたことを伺わせます。

ソルジェニーツィンがこの作品を通して言いたかったことは、表面的には科学者や技術者が強制的に汚い研究に従事させられていることへの告発かと思います。
もう少し掘ると、色々な囚人がいるが、中には甘言には騙されない骨太の囚人がいて、国家の抑圧にすら負けず不利を承知で自分の信念を通そうとすること――、だと思います。
ですが、もっとも言いたかったのは、こんな収容所でも案外楽しくやっているぜというポジティブさではないかと思います。

収容所が舞台なので、いかにも陰鬱そうなのですが、ネルジンとシーモチカがいちゃついたり、ソログジンは女職員とW不倫したりなど艶っぽい部分もあります。
そう言えば「ガン病棟」でも、コストグロートフが看護婦とねんごろになったり、ガンの少年が明日乳がんの手術のため乳房を切らなくてはならない少女に、最後の思い出におっぱいを吸わせてもらう、などと油断していたら椅子から転げ落ちそうになるエピソードがあります。

そういう「地獄みたいな所でも、人生灰色一色じゃないよ」というメッセージが、仕事とか人間関係が上手くいかなくて苦しんでいる人に希望を与え、困難に立ち向かう勇気を鼓舞するところにソルジェニーツィン文学の素晴らしいところがあるのだと感じています。

ところで去年からのロシアのウクライナ侵攻により、ソルジェニーツィンの名がプーチン大統領のロシア大国主義の思想的背景として紹介されるのをしばしば耳にするようになりました。

う~ん、ごく皮相を捉えればそうなのかもですが、ソルジェニーツィンの本質ではないんでないの?と思います。

よく引用されるのが「甦れ、わがロシアよ」ですが、たまたま手に入れていたので該当箇所をお見せしたいと思います。


読めば明らかにロシアとウクライナの統合を志向していますな……。

「野生の原野」に上がっている、クリミア、ノヴォロシア、ドンバス。

クリミアは言わずもがなロシアの後ろ盾で分離独立しました。
ノヴォロシアはウクライナ侵攻の口実となった「オデッサ騒乱」の舞台です。
ドンバスは戦争の激戦地として頻繁にテレビ報道されています。
見事にウクライナのあやふやな輪郭を言い当てているではないですかー。三十年の時を経て不安は現実のものになっています。

しかししかし、力ずくで併合せよなどとは全く書いておらず、それどころか「実際に分離を望むなら、それを無理に抑えることは誰にもできない。」と留保しています。

思えばソルジェニーツィンの文学とは、力ずくの政策に対する異議申し立てそのものです。
まだ存命だったとしたら(百歳超えてますが…)、プーチンの尻馬に乗ってウクライナ併合に迎合するなんてことは有り得ないでしょう。
逆に地獄のような暮らしを強いられているウクライナの戦争被害者を励まし、抑圧者に対抗する勇気を鼓舞するのではないでしょうか。

(「煉獄のなかで」の記事が長くなってしまったので、「食人の形而上学」については別に分けて載せようと思います)

積立NISA

このあいだのFXデモの記事で予告していたように、積立NISAを始めちゃいました。どんな感じで口座開設したのかを書いて行こうと思います。

まず証券会社選びなのですが、給与の一部をそのまま積立に回せば捗るかと思い、最初は給与振り込み口座がある某メガバンクを検討していました。
ところが、積立NISAは好きな投資信託を選んで毎月お金を入れていくのですが、調べてみるとそのメガバンの扱っている投資信託がものすごく少なかったのです。
特に気にしていたのは信託報酬なんですが、業界最安水準の扱いが無かった……。
トレーダーの方には申し訳ないんですけど、信託報酬なんて低ければ低いほど良いですからね。
それで証券会社を色々と調べてみたところ、松井証券がまあまあ良いとあり、昔作った口座がまだ残っていたので、松井で積立NISAをやることに決めました。
ちなみにここではリーマンショックのころちょこちょこ株を買っていたのですが、大幅に評価損が付いたのでずっと塩漬けにしていました。
アベノミクスで値が戻ってきたので売り払って、あとは何のポジジョンも持たずずっと放置していた口座です。

それでNISA口座の開設ですが、松井証券に申込書や本人確認書類を色々と送ってからしばらく音沙汰なしでした。
9月の下旬ごろに申請して、実際に開設されたのが10月中旬ごろだったので3週間くらい要したかと思います。
どうも税務署に回付して色々と審査があるみたいです。
ネットで積立NISAと調べると、すぐに手軽にできそうな感じですが、実際にはけっこう時間がかかるので注意してください。
松井証券からようやく連絡が来て、サイトにログインしてみると確かにNISA口座が「開設済み」になっていました。

次にどの投資信託に積み立てていくかを決めます。
下の画像の通り、取り扱い投信一覧がズラリとあります。
バーチャルリアリティーやEV、シェールガス、露ルーブル債など色々な方面に投資する商品があり、「え~ヤバくない?」と思えるものもあって、見ていると結構面白いです。
それを「つみたてNISA」でフィルタすると、177件ヒットします。
あまりにも海千山千過ぎる投信を許してしまうと金融庁の沽券にかかわるからか、積立NISAで選択できるものは一定の条件をクリアしたもののみになります。
上のように高リスク物件にステータス全振りしているものは対象外となるので、安心ですね。

まずは、信託報酬が気になるので報酬が安い順にソートすると下になります。
「SBI・V・S&P500インデックス・ファンド」が最安ですね。
「eMAXIS Slim 米国株式(S&P500)」も僅差で2位です。

次は、とうぜん運用成績が大事なのでトータルリターン(3年)で好成績の順に並べてみます。

おお、何と「eMAXIS Slim 米国株式(S&P500)」が1位。
「SBI・V・S&P500インデックス・ファンド」は3位ですが、1%も違わないですね。
両方とも信託報酬が低いのに好成績で優秀な投信では無いかと思います。

ちなみに、6ヶ月と1年間の成績上位はどうかと言うと、こんな感じです。


なんと、6ヶ月間の成績は上位でもマイナス!
投資信託で短期で利益を上げるのは難しいと聞きますが、結果に如実に表れていますね。
1年投資すると成績上位で10%くらい利益が出てるので、徐々にドルコスト平均法の効果が表れてきている感じでしょうか。

値動きの激しさを表すリスクメジャーを見てみます。

低ければリスクが無くて安全な商品ということなのでしょうが、総じてトータルリターンが低く魅力が無いですね。
投資内容を見ると、国内の有名企業の株式に分散投資しているようです。
日本株自体が、安全だがいま一つ突き抜けた成長が期待できず魅力に欠けるということでしょうかね……。

逆に高い順に見てみると、必ずしもトータルリターンが高いものばかりではないですね。リスクが高い割に、大きなリターンも見込めないとなると、ちょっと敬遠したくなる商品たちですね。

資金流出のランキングを見てみます。

信託報酬が低く、トータルリターン上位の「eMAXIS Slim 米国株式(S&P500)」と「SBI・V・S&P500インデックス・ファンド」が1位と5位という順当な結果ですね。
あまりトータルリターンが良くない「eMAXIS Slim 全世界株式(オール・カントリー)」が3位につけているのは、「米国株だけに投資するのは不安」という人たちから支持されているものと思います。

投信商品の詳細な情報は下のような画面で確認することができます。
(「SBI・V・S&P500インデックス・ファンド」の例)

いくつかランキング上位の商品を見て、迷ったのですが「eMAXIS Slim 全世界株式(オール・カントリー)」(いわゆるオルカン)にすることにしました。
投信の成績上位は米国株なので魅力的なのですが、昨今のニュースを見ているとアメリカの景気が曲がり角に差し掛かっているようなので、米国株に全振りは怖いなーと思ったためです。
とは言え、オルカンの資産構成見てみると6割方アメリカなんですよね……。
まぁ、アメリカが景気後退したら他の国が影響を受けない筈は無いですよね。

オルカンはおまじない程度かも知れませんが、小心者の私はあんまりトータルリターンばかりに気を取られると足元を掬われるような気がするので、ちょっとはリスク分散できる方で行こうと思った次第です。

投信が決まったので、月々の積立金額の設定を行います。

積立NISAの月額上限¥33,333を毎月積み立てることにしました。
ちなみにお金の流れは下記のような感じです。

給与振込口座(メガバン)→ 松井証券の口座→ 投信(オルカン)

メガバンから松井証券へは毎月定期入金します。入金に手数料はかからないので助かります。
いったん設定してしまえば、あとは気絶で勝手に積み立てられていきます。

「分配金コース」はオルカンは分配金が無いので、再投資でも受取でもどちらでも良かったのですが、再投資にしました。

一番下の「増額月の設定」はどういうことかと言うと、積立NISAの年間の枠は40万円ですが、私は10月から始めたので、投資できる月は3ヵ月のみということになります。
ひと月の上限は¥33,333なので、じゃあ今年は約10万円ほどしか積み立てられないのか?と言うとそんなことは無いです。
多分ボーナス月に割り当てるように設けられているのだと思いますが、年に2回まで増額月を設定でき、通常の積立額にプラスして投資することが可能です。

私の場合は、通常の積立金額は¥33,333×3=¥99,999なので、40万まで¥300,001余っています。
12月を増額月にして、¥300,001増額することで年間の枠いっぱいまで使うことができるというわけです。
これは今年だけで、来年からは増額月は設けずに、毎月¥33,333ずつ、何も考え~ずに積み立てて行こうと思ってます。

限界ニュータウン -荒廃する超郊外の分譲地-

YouTubeに「資産価値ZERO -限界ニュータウン探訪記-」というチャンネルがあるのですが、非常に面白いです。
おもに千葉県北東部に存在する「限界ニュータウン」を散策し、放棄されて荒れ果てるがままとなった分譲地を訪ね歩くものですが、地味な風景の裏に渦巻く欲望や不動産業界の闇が見え隠れして実に引き込まれる内容です。

この度、その動画の作者(吉川祐介氏)が、YouTubeで紹介している内容を本にして出版されました。
それがこの本「限界ニュータウン -荒廃する超郊外の分譲地-」です。
Amazonで予約し、首を長くして待っていたのですが10月に入って届きました。
土日でかじりついて即完読!
限界ニュータウンが抱える様々な問題が整理されて載っているので、分かりやすくスーッと内容が入ってきます。
それだけに「ヤバイでしょ?」「もう詰みじゃない?」という感想しか出てきません……。

お勧めしたい本なのですが、書いてる内容はYouTubeと同じなのでまずは動画を見た方がとっつきやすいかも知れません。
動画の方が分譲地が放置されて、ボウボウに荒れてたり不法投棄の餌食になっている様子がより鮮明に伝わります。

本にも上のような感じで写真が載っていますが、やはり白黒なのでインパクトがいま一つですね。

一章「限界ニュータウンとはなにか」、二章「限界ニュータウンで暮らす」はYouTube動画の内容をほぼなぞったものなので、それほど目新しさは感じませんでした。
しかし三章「限界ニュータウンを活用する」は目新しい内容で「おっ!」と思わされます。
もはや進退窮まったかと思われる限界ニュータウンにまだ活用法があるという……。
何名かの事例(親子二代での活用、リタイア後の定住地として、YouTuber)が紹介され、それぞれ容易ではない感じはしましたが、応援したくなりました。
他にもコラムで、限界分譲地を扱う不動産屋さんの話や、限界ニュータウンで育った人の話があり、これらは動画には出てない話だったので大変興味深く読みました。

YouTubeの教養系チャンネルはゆっくり茶番劇的なものばかりだと思っていましたが、資産価値ZEROはしっかりと取材しかつエンタメとしても面白い稀有なチャンネルだと思います。
お仕事関係の愁訴がブログやこの本の中でもチラリと見えたりしますが、これからも素晴らしい動画を作り続けて頂きたいと願っています。

FXデモ

涼しくなってきましたね。

この頃はインフレの話題がよく聞こえるようになってきました。
その一因は円安にあって、年初は1ドル=115円くらいだったのが、今や145円くらいになっていて30円も下落しています。
つまりドルに対して円の価値が2割くらい減ったことになりますね。
その分輸入品の値段が上がったことが物価高を後押ししています。

詳しいことはよく知らないのですが、アメリカではインフレが凄い勢いで進んでいるそうで、インフレ潰しのために金利を上げたのが原因だそうです。
日本はずっとゼロ金利政策を取ってるので、円を銀行に預けていてもちっとも金利が付きませんが、ドルに替えて預けておけば金利が付くのでドルの人気が高まった、ということではないかと思います。
景気が悪いときに金利を上げると景気がさらに悪化するそうなので、日本はゼロ金利政策を続けざる得ないだろうという観測からか、円安ドル高傾向は一方的に進んでいました。

私の預金は特に増えても減ってもいないのですが、世界的に(ドルの世界から)見ると資産が2割も減ったとなると、何だか歯がゆいような気がしています。
そこでふとFXで、円をドルに替えて持っておけば円安でも資産を目減りさせずに持っておけるのではないかと思い、どんなものか調べてみることにしました。

「FX」と聞くと、2ちゃんねるの阿鼻叫喚コピペが恐ろしく「手を出してはいけないもの」というイメージが強いです。
貯金を全て溶かしたとか、魔が差して集金したお金を入れてしまったとか……。
そういう「名作」(?!)は09~13年頃にカキコされたものが多い印象です。
レバレッジが規制されてギャンブル性が下がったからか、爆死コピペを見て警戒するようになったのか、はたまた仮想通貨とか別の戦場に移動したのか分かりませんが、近年はそんなに盛り上がっている印象は無いですね。

こうゆうやつね…。

いきなり口座を開いて「実戦」というのは怖すぎたので、デモトレードが出来る証券会社を探すといくつかあり、デモの期間が無期限の楽天証券が良さそうだったので申し込んでみました。
デモは500万円の元手が与えられていて、実際の値動きに沿ってトレードしてどれだけ増やせるか試すことができます。
トレードツールはパソコン用とスマホ用があり、どちらも入れてみましたが、パソコン用はいかにもプロ御用達という感じで、良く分からない画面やボタンがいっぱい並んでいて厳めしい感じです。
スマホ用はさすがにシンプルで、ゲームのようなお手軽さがあり、こんなので大金を動かすということが逆に怖くも感じます。
8月頭からポチポチと遊んでいて、今のところ収支はプラス3万円くらいです。
デモなので思い切って大きく張ればいいのですが、どうも小心者でいつも数千円のトレードに終始してしまいます。

私のトレード法(というほど立派なものではないですが)は、1時間足を見て順調に上がってる(または下がってる)ように見えたらトレンドに沿って売り買い(1,000~10,000通貨)し、数千円の利益が出たら手仕舞いするというものです。
逆に含み損になったら、しばらく様子をみてプラスに転換しないか、もしくはちょっとでも損が減ってくれないか見極めます。
つまり、含み益が出てる時はすぐに決済し、含み損の時はグズグズと決断を遅らす傾向があるということですね。
これは「損失回避バイアス」としてよく知られている心理状態で、トレードを失敗させる要因とも言われていますが、実によく当てはまっていますな……。

それにしても9月は激しい値動きをした月でした。
下は9月13日のドル/円の動きです。
21:30ごろから30分程度で142円から144.4円へと2円以上も急騰しました。

もう一つ同じ時間のユーロ/ドルです。
ユーロとドルのどっちが強いかでトレードするものですね。どちらも自国通貨でないので、どのくらい儲かってる(損してる)のか感覚的にいまいち分かり辛いのですが、上昇下降のトレンドがドル円より分かりやすいように感じていたので、このころ触っていました。

この時は円に対してもユーロに対してもドルを売るというポジジョンを取っていました。
冒頭で言っていた話(円安ドル高に乗る)と違うようですが、スマホでポチポチやっていると、どうしても目先のトレンドに乗りたくなってしまい、そうしてしまいました。
下がその時の決済履歴です。

9月9日に仕込んだのですが、軟調だったので、週をまたいでポジジョンを持ち越していました。

楽天証券固有の問題なのか、他の証券会社もそうなのか分からないのですが土日はシステムがメンテナンス状態となり取引が出来ません。
この間に思いもよらぬ急激な値動きがあったりしたら――、怖いですね。
 

それでしばらくウォッチしていたのですが、20時ごろに薄く利益が乗ったのでドル円、ユーロドルともに決済しました。
そしてその一時間半後に突然のドル急騰が!
危なーーい!! ぽけーっと放っておいたら4万円くらいの損失を出すところでした。
何でこの時間にこんなに沸いたのか? 理由は良く分かりません。
たまたま直前に決済したので偶然難を免れました。

次は9月22日なのですが、今度は逆にドルが急落しました。
理由ははっきりしていて、日銀砲をぶっ放したからですが、この日シルバウィークで有休を取ってソファーにぐで~っと横たわってスマホをポチポチしていた私は、市況ニュースなど一切見ずに、トチ狂ったかのようにドルを買っていました。
しかし、ななななんとドル/円は17時から21時くらいにかけて145.7円から140.7円へと一気に5円も急降下したのでした。

下が17時台を拡大したものですが、狙ったように天井で掴んだのはどういうことなんでしょう……。

しかし天性のチキンさが幸いしたのか、1,000通貨の様子見のトレードでした。
あれよあれよと膨らんでいく含み損(1,000通貨のトレードで出る損ではなかった)に、「こりゃ何かオカシイ」と慌ててYahoo!ファイナンスあたりを覗くと、お祭りになっていました……。

慌てて反対に10倍の玉数でドルを売ると面白いように含み益が乗り、先の含み損を帳消しにしました。
が、怖くなり(チキン!)いったんバスを降り、利益確定します。(オレンジの線)
「さすがにそろそろ反転するんじゃないのか~」と様子見をしてみても下降は収まる様子が無いので、おかわりのドル売り(ピンクの線)
これもビビリですぐに売りますが、含み損を超える利益が出たので観念して最初のドル円ロングを決済しました。
お陰で狙ったような天井掴み底叩きを実現しました。
う~ん、まんま損失回避バイアスが表に出ていますね……。

これが9月22日の決済履歴ですが、5円も落ちる大相場の割には3,810円のうっすい儲けって何なんでしょう……。
今回の相場で身代築いた人もいたでしょうに(ヤバイ発想)

しかしながら冷静に考えると。
FXのように市況がチカチカとリアルタイムで更新されるのを見ると、どうしても射幸心が煽られギャンブル的なトレードになってしまうものだと思います。
そこでは心の弱さがもろに表れて、ゆくゆくは阿鼻叫喚コピペの様な世界に突入していってしまう恐れがあります。
なので、私のような素人はFXはデモで留めておいた方が良いということが良く分かりました。

もっと心穏やかにコツコツと投資できるものが良いです。
そう「積立NISA」みたいな――。
この後半は「積立NISA」に続く……、かも?

動く家

最近よく耳にするテック系の用語――、AI、VR、仮想通貨、メタバースなど色々ありますが、「代替肉」と「完全自動運転」がこれからの暮らしを大きく変えるような気がします。

人間、食に関しては保守的なところがありますから、肉食を完全に捨てて代替肉に切り替えるまでには何世紀もかかるかもしれません。
しかし実現したら人類史上類を見ない画期的な出来事になるでしょうね。
食と宗教というのは深い関係がありますから、それで人類の宗教観も大きく変わるかも知れませんね。
現代人の常識からすると、古代人が人肉を食べていたと聞くと「ウゲーッ!」って感じですが、逆に未来人からしたら現代人が動物の肉を食べていたと聞いて「ウゲーッ!」と思ったりして……。

完全自動運転はそれに比べるともうちょっと小さなスケールでの変革になるかも知れませんが、ワクワクするような未来をもたらし、使い方次第で新しい産業を興したり、過疎問題の解決に寄与できる可能性があると思います。
今回は完全自動運転技術を突き詰めるとどのような未来が描けるのか、私の想像をお話ししたいと思います。

惜しい(?)あとちょっとでスマートフォン シャープの「ザウルス」

ちょっとその前段として、シャープが昔出していた「ザウルス」という電子手帳についてお話ししたいと思います。
ここから技術をどう生かすべきかという知見が得られるように思います。

かつてシャープが出していた電子手帳「ザウルス」

拙い絵で恐縮ですが、これは2006年頃に出ていた「ザウルス」シリーズの最終モデルのイメージです。
このアイコンが並んでいる感じ――、現在のスマートフォンを彷彿とさせます。
実際にまだガラケーが主流だった時代にタッチパネルを備えており、パソコンに近い感じでインターネットができるなど、極めて時代を先取りしたデバイスで「あとは通話機能さえ付ければスマートフォンじゃん?!」と思えなくもありません。

皮肉なことに最終モデルの出た翌年にiPhoneが発表され、携帯電話の世界はガラケーからスマホに一気に時代が移っていきます。
その流れの中でザウルスは人々の記憶からも遠ざかって行ったものと思いますが、早すぎたデバイスとして惜しむ声も耳にします。
その声につぶさに耳を傾けると――、「確かに惜しかった」と思う反面、「やはりiPhoneには太刀打ちできなかったであろう」とも思います。
前者は技術的な点について考えるとそう感じ、後者はデザインについて考えるとそう思えてしまいます。

iPhoneの基本的なデザインは初代から変わっていない

上の絵はiPhone13プロを模写したものです。
初代から比べるとディスプレイはベゼルぎりぎりまで広くなり、カメラレンズが3つも付くようになるなど変わった点もありますが、基本的なデザインは一貫しており、シンプルさを追求する哲学に溢れています。

そこからザウルスを見てみると、ノートパソコンのようにキーボードで入力したり、ディスプレイを180°回転させてスマホ風に持ったりなど「ポメラ」を愛用していた私のような者からすると思わず「カッコイイ……」とため息をつきたくなるようなギミックに溢れています。
豊富なスロットやインターフェイスはいかにも弄り甲斐がありそうで「男の子のおもちゃ」という感じです。

しかしながら、そのゴチャゴチャ感がユーザーの敷居を高くしてしまったのは間違いない。
古今、ゴチャゴチャした製品が覇権を取れた例は無いと思います。
シャープには大胆な引き算の発想が存在しなかった。
逆にジョブズはブラックベリーみたいな製品が跋扈していた携帯電話に大鉈を振るい、スマートフォンという新しいコンセプトに結晶させ市場を席巻するに至りました。
これを考えると、マニアが嘆いても歴史は変わらなかったと思います。

パナソニックの「近未来の家」

完全自動運転の考え方は昔からあったみたいですが、私の感覚だとテスラとかの取り組みが報道されるようになった2010年代後半から実現可能性を帯びてきたように思います。
2019年にパナソニック(自動車メーカーでないというのが面白い)が「近未来の家」というコンテナハウスと完全自動運転が融合したコンセプトカーを発表しています。
これはiPhoneに見られるような「省略の美」に満ちており、従来のキャンピングカーをガラケーとするとまさにスマートフォンです。

キャンピングカーとパナソニックの「近未来の家」

何と車に必須だと思われてきた運転席が無い?!
タッチパネルがテンキーを不要としたように、完全自動運転がハンドルを不要としました。
さらにベゼルいっぱいまでディスプレイを広げたスマホよろしく、車体のフレームいっぱいまで住空間を広げており、これには天国のジョブズも思わずニッコリしてしまうのではないかと思います。

「近未来の家」が実現すると、例えば通勤に一時間かかっていたとして、従来は慌ただしく朝食を摂って、スーツに着替え、車を運転して出勤していたところを、完全自動運転の車内で車窓を流れる風景を眺めつつポーチドエッグにアスパラガスを添えた朝食を摂り、シャワーを浴びてからスーツに着替えて内ポケットにラベンダーを挿し、ちょっと時間が余ったのでプライムビデオでも見てるうちに到着し、ドアを開けたら即職場という快適ライフ手に入りそうです。
通勤時間も有効に使えるので、わざわざ職場に近い都心部に住む必要も無くなり、郊外に住宅需要が広がって過密化を抑える効果が期待できそうです。

「何だいあれは?」とジョブズは言った

では将来の完全自動運転の市場はパナソニックが手に入れるのでしょうか?
申し訳ないのですが、そうはならないと思うのです。
もーーっっと大胆な引き算をしないと「近未来の家」はザウルス止まりになってしまうと思います。
私はジョブズが「近未来の家」を見たら、あるものを指して「何だいあれは?」と言うと思うのです。タイヤを。

「近未来の家」が発売されたらキャンピングカーを持ってる層には買い替えの動きがあると思いますが、そうでない層に果たして訴求するでしょうか?
先ほどは意図的に描写しませんでしたが、「近未来の家」で出勤する際にはパジャマで駐車場まで歩いて行くのでしょうか?
また退勤時はわざわざ寝るだけのために家に帰る……?
何だかチグハグで不自然なような気がします。

それは「近未来の家」が家でもあり車でもあるというどっちつかずな所に起因します。
どっちかに振り切らないと消費者のニーズを掴めず中途半端に終わると思います。
せっかく「動く家」というコンセプトに到達したのですから、家側にグッと振り切った発想をしてみましょう。
そうなった場合、社会・インフラにどのような変化をもたらし、私たちの生活を変えるのかを夢想してみたいと思います。

私の考える「動く家」

私の考える「動く家」

その「家」は左右5メートル四方の正方形で、高さは4メートルあります。
普通の家のような上部と、蓄電池や浄水槽、制御装置などを格納する底部に分かれています。
上部は、将来的に軽くて丈夫な建材が登場すれば良いのですが、そうでなければ移動に耐えるために鉄筋コンクリート造となると思います。その重量は40tと想定しています。
この家に移動のための車輪は見えませんが、実は底部に隠れていて、ジャッキアップして方向転換したり、歩く程度の速度で自走します。
さりとて道路法上の道路とは幅4メートル以上の道路ですので、この家が一般の車道を走ることは不可能です。
仮に走ったとして、一般の車両とあまりにサイズが違いすぎて、車にとっては壁が迫ってくるような命がけの状況を生み出してしまうでしょう。

動く家は基本的に専用レーンを走行します。
「走行」というより、専用レーンに乗ったらあとはベルトコンベアのように運んでもらうというイメージです。
40tもの大重量を動かすには大量の電力が必要なので、動く家それ自体で長距離を走るというのは難しいと思います。
専用レーンは家が乗ると感知して動き出し、他の家との間隔などはクラウドを通して集中制御します。そこでは定められた行先までの最適な経路を、AIが渋滞状況や気象条件などを加味して動的に選択することになるでしょう。
高速道路で5t以上のトラックが80キロメートル以上出せないことを考えると、専用レーンの速度は10キロメートルを超えることはできないと思います。

専用レーンはバスレーンのような道路に近接したものではなく、鉄道のように全く別個のものになります。
動く家が普段置かれている「タウン」は、前面が普通の道路に面し、背後に鉄道の引込線のようなレーンが敷かれているエリアとなる想定です。
けっきょく動く家が本当に自分で動くのはレーンに乗るところまでで、レーンに乗ってからはクラウド制御に任せた気楽な船旅となります。

「船旅」!
動く家での移動はまさに地上を行くクルーズと呼べるものになると思います。
専用レーンはさながら運河です。
地図アプリ上でGPSで捕捉した家の航跡と目的地までの航海計画を確認することができます。
もし仮に道の駅的なタウンに途中下車したいと思ったならば、アプリの操作で計画を変更すれば即座にクラウド上で経路が再計算されます。

しかしながら、仮にネットワーク障害などでクラウドとの通信が途絶してしまったらどうでしょう?
その場合移動の一時停止はやむなしですが、他の家との衝突のリスクには船で言うところのAIS(自動船舶識別装置)のような装置を持ことで対応することになると思います。
これによりクラウドを介さずに他の家との位置関係を把握可能とします。

私は去年マンションを買うにあたり、家にまつわる色々な規制を学んで窮屈に感じたものですが、動く家が実現するとしたら耐震基準適合どころではない条件をクリアしなければならないでしょう。
家のごく細部まで規格に沿った造作になることもやむなしと思います。
まず家具の類は壁に固定されていなければなりません。テーブル、椅子なども床に固定式になるでしょう。家電もごく軽いものを除いては埋め込み式にしないと空飛ぶ凶器に襲われることになりかねません。
どうしてもこだわりのマイホームを持ちたい方は「動かない家」を選択することになりますな。

逆にレゴブロックのように規格化された家であることが大きな可能性に繋がるとおもいます。
まさしくレゴのように複数の家を並べて一つの大きな家にしたり、積み重ねてマンションのようにしたりすることも考えられます。
またコアである「動く家」を母艦となるホテルにドッキングして「家の安心感はそのままにリゾートの拡張された設備も楽しめる」という新しい旅行体験も実現できるかも知れません。
とはいえ、家という様々にニーズがあるものを一つの形に収斂させるのは難しいと思いますので、具体的には言えないのですがいくつかのクラスが派生すると思います。
それらのクラスを私のなかでは「トーテム」と呼んでいます。
絵の家にはふくろうのイラストが描き込まれていますが、これはふくろうのトーテムに属する動く家という意味を込めています。

ドッキングに当たっては、ライフラインを束ねた「バス」を連結するものと考えています。
上下水道、電気、ガス(?)、換気、LANなどです。これはパソコンの接続端子よろしく厳密に規格化されるのではないでしょうか? USB端子みたいに後方互換性を保って複数の世代が誕生するかも知れません。
私としては上記に加えて温泉のラインもあったら良いと思いますが、酸性、アルカリ性、高塩分、放射能(ラドン)など色々な泉質があるので意外と難しいかも知れません。
(温泉はUIB3.0から実現~、みたいな ※Ugoku Ieno Bus)

もう一つパソコンとの対比で言うと、スマートハウス化が高度に進行し、ハードとソフトの分業がはっきりしてくると思います。
今でも車にOSが搭載されているので、そのうち家にもOSが入るようになるのは間違いないでしょう。
家のOSをハッキングしたり、フリーのOSを入れて普通はできないようなことにトライするという輩が出現するような気がしています。

世の中はどう変わるのか?

かつて都市の郊外に作られたニュータウンは住人が高齢化して過疎化が進んでいると言います。
これらのニュータウンを再整備して、地上のシーレーンを結ぶ港にしてはどうでしょうか?

~~~ ここから未来 ~~~

「港=タウン」には船であるところの動く家が点在しています。
複数の家が繋がって広い家になっていたり、ポツンと離れて孤独を楽しむ家もあります。
コンビニやスーパーもあり、それらもまた動く家です。

住人たちは普通に朝出勤したり、学校に行ったりします。
ロータリーに完全自動運転のバスが停まっていて、ある程度人が乗り込むと勝手に出発します。
決まった時刻表もルートも無く、乗った人たちの目的地に合わせて最適なルートを計算して送ってくれます。
バスに揺られながらおしゃべりしたり、スマホ弄ったりして(つまりは今と大差なく)到着するのを待っているでしょう。

完全にテレワークの人や、オンライン授業の人は、週末を観光地で過ごすために家ごと移動しても良いかも知れません。
スマホに目的地を入力するとほとんど気が付かないうちに家は動き出し、仕事や授業を受けている間は動いているということを忘れてしまいます。
いつも通りテレビを観て、お風呂に入り、ベッドに潜ります。横になっていると時折レーンの分岐で振動を感じますが、すぐに眠りに落ちてしまいます。

朝、スマホがピカピカ光っている。
目的地に到着したとのメッセージが入っていました。もう昨日の深夜に着いていたようです。
ドアを開くと普段は見慣れないカーペットの廊下なのでぎょっとします。
家はホテルとドッキングしていました。
そのまま廊下を突き当りまで進んでエレベーターに乗り、食堂に進みます。
ビュッフェで地元の新鮮な海産物のおかずを選び、「休みだからいっか~♪」と地ビールまで手に取ります。
食堂の広い窓からは朝の陽光が差し込み、眼下には青い海が覗いています。
思わずニンマリ「楽しい週末になりそう」

しかし動く家での夫婦喧嘩はご法度かも……。
「今朝は言い過ぎたかな…」
仲直りのケーキを持って仕事帰りのバスに揺られているうちに、仕事の疲れからいつしか寝てしまいました。
到着を知らせるアラームで目をこすり、あからさまな合成音声の「ご利用ありがとうございました」を背にタラップを降ります。
いつもの「家」の前に降りたハズが―――、え、家が無い?!

(家ごと家出かーい?!)

最近読んでる本

テレワークが定着してしまい、通勤が無くなったので、「電車の中で本を読む」という習慣が無くなってしまいました。
コロナ前に大著「アンナ・カレーニナ」を読むぞと意気込んでいたのですが、中巻の途中で止まってしまってます。
もうどんな話だったか忘れつつあります……。

読まないのに本欲しい欲は健在で、積読を増やしていってしまってます。

まずはコレ。ソルジェニーツィンの「煉獄のなかで」

これは神保町まで足を運んでも見つけられず、結局ネットで注文しました。
上等の酒の開栓を惜しむように最初の頁を繰ったのですが、群像劇というのか「ガン病棟Part2」を期待して読んだら、筋が捉えがたく、有象無象の登場人物の織り成す会話に辟易してページを捲る手が進まなくなりました。
たぶんもう少し読み進めれば面白くなってくるんじゃないかと思いますがー。

あとは珍しく小説ではなく人文科学系の本で「エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ」という、舌を噛みそうな名前のブラジルの文化人類学者の2冊。
「インディオの気まぐれな魂 (叢書 人類学の転回)」「食人の形而上学: ポスト構造主義的人類学への道」


帯が怪文書のそれ…

この本を手にしたのはたまたま付けていた放送大学のチャンネル(全く見るつもりは無かった)で、文化人類学の講義をやっており「パースペクティヴ主義」について耳にしたことによります。
パースペクティヴ主義とは「食人の形而上学」の言葉を借りればこういうこと―――。

    人間、それも規範的な状態にある人間は、人間を人間として理解し、動物を動物として理解する。精霊に関していえば、こうした通常は眼に見えない存在者をみることは、その「状態」が規範的ではない——病気である、もしくはトランス状態か他の副次的な状態である——ことを確かに意味するのである。獲物は、人間を精霊や捕食者としてみるのだが、捕食動物と精霊の側からみれば、人間は獲物である。ペルーのアマゾンに住むマチゲンガについて、「人間存在は、自らをそのようなものとしてみる。しかしながら、月、蛇、ジャガー、そして天然痘の病原体は、人間をバクやペッカリーとみなして殺すのだ」と、ベアーは指摘している。
    われわれが非人間とみなすもの、実はそれ自身(そのそれぞれの同種)こそが、動物や精霊が人間とみなしているものなのである。それらは、家や村にいるときには、人間に似た存在として感じ取られる(あるいは、生成する)。そして、その振る舞いや特徴は、文化的な外観によって理解される。そしてそれらは、自らの食べ物を、人間の食べ物のように理解するのである(ジャガーは、血をトウモロコシのビールとみなすし、ハゲワシは、腐った肉に沸く虫のことを焼き魚とみなす、など)。
    それらは、身体的な特性(毛並み、羽、爪、くちばし、など)を、装身具や、文化的な道具とみなす。それらの社会システムは、人間的は制度にのっとたやり方で組織される(首長、シャーマン、半族、儀礼…)。

意味わかりますか……??
科学的でもなく、誰の視点なのかもよく分かりませんが、「人間と動物の関係は絶対的なものではなく、転倒しうる相対的なものだとアマゾン原住民は考えている」と理解しています。
一種のアニミズムだと思いますが、黒澤明が映画化した「デルス・ウザーラ」のなかで、デルスが動物のみならず水や焚火さえも人とみなしていたことを思い出すと、シベリアとアマゾンという地球の裏表ほど離れた場所で、通底する同じ思想を持っていることに不思議な驚きを覚えました。

また胎内記憶や中間生記憶といった、赤ちゃんが生まれてくる前に持っている記憶について興味があるのですが、パースペクティヴ主義と強く共鳴するものがあるように感じます。
胎内記憶のエピソードで良く登場するのは、お風呂、プール。これは言うまでも無く羊水のことを表しています。
滑り台を下って来たとかドアを開けて外に出てきた、というのも産道のことを言っているのだと思います。
お腹の中でお菓子を食べた、積み木で遊んだ、色々な紐があったというのも胎盤やへその緒のことでしょう。
こうした言い換えはパースペクティヴ主義の「身体的特性を文化的な道具と見なす」に良く対応しているように思われます。

こういうことをつらつら考えるにつけ、パースペクティヴ主義には人文科学上幅広く応用できるポテンシャルがあるように思われ、自然科学における相対性理論のようなエピックな思想であるように感じられます。
んで、ヴィヴェイロス・デ・カストロはそのパースペクティヴ主義の提唱者です。

そういった動機づけで、まずは「インディオの気まぐれな魂」の方を読みました。
絶版本だったので、ネットで古本を取り寄せたのですが、思いっきり傍線やマーカーが引かれており、前の持ち主が勉強熱心であったことをうかがわせました。
この本は薄かったのですぐに読み終えたのですが、残念ながらパースペクティヴ主義についての言及は殆どありませんでした。

ポスモダ(ポスト・モダン)文体なのかカルスタ(カルチュラル・スタディーズ)文体なのか分かりませんが、読みづらかったです……。
なので正確ではないかと思いますが、言わんとすることは以下のようなことだったと思います。

インディオは進んでキリスト教に改宗しながらも、血生臭い復讐や人肉食を続けていた。
宣教師の目からするとまことに気まぐれで、一貫性を欠くように見えたがそうではない。
インディオにはインディオの論理が存在する。
それは復讐や人肉食は他者を取り込んで自己を改変したいという欲求の現れなのである。
キリスト教を進んで受け入れたのも同じく「他者への開かれ」によるものである。

「ホンマか~? インディオをリスペクトしすぎやないか~?!」と思ってしまいますが、そこにはスペイン人がインディオを抑圧しまくった反省も含まれているのかなと思います。
「復讐! 人肉食!!」⇒「他者への開かれ」の変換が若干のパースペクティヴ味を感じなくもないですが、この本では直接の言及は無かったように思います。

で、それでは知識欲が満たされなかったので手に取ったのが「食人の形而上学」
こちらは流通してるので新品をGET!
おどろおどろしいタイトルもそうですが、「インディオの気まぐれな魂」に比べてアングラ方向に悪ノリした本の造りになっています。
元からなのか翻訳がおかしいのか分かりませんが、わざわざ持って回ったような言い回しや衒学的な学術用語に満ちていて「インディオ」に輪をかけて読み辛いです。

横文字の濫用! これがポスモダのアトモスフィアを醸しだす。
「ヘゲモニー」覇権か権威と訳しておけば良くないですか? 「タクソノミー」ロボトミーの友達かと思いましたよ。単に分類法で良いですよね?
これには思わず「ソーカル事件」が頭をよぎります。(ソーカルという意地の悪い物理学者が、難解な科学用語を散りばめたポスト・モダン風の論文(中身はでたらめ)をでっち上げて、現代思想系の学術誌に投稿したらそのまま掲載され、プゲラしたという事件)

結構な大著でまだ5分の1程度しか読み進められていません。
ちょっとどのくらいかかるのか、諦めて本棚の片隅に積まれるハメになるのか分かりませんが、パースペクティヴ主義の妙味を会得したいので「ノエマ」だの「リゾーム」だの、雪崩のごとき謎の用語達をスマホで調べつつ読み進めたいと思います。

インカ・アンデス本

けっこう前に、紀行漫画家の芝崎みゆき先生の本(この記事)を紹介したのですが、この度新刊が発売されたので勝手に宣伝します。

2年前くらいからか3冊の執筆が宣言され、にわかにブログの更新が頻繁になりました。
体調不良と闘いながら執筆を続ける様子が日々アップされて、楽しそうな絵柄とは裏腹にこのようなご苦労があったのかと、心配しつつ応援していたのですが、ついに2冊が出版となり、おめでとうございます!

「アンデス・マチュピチュへっぽこ紀行: インカ・プレインカ遺跡の旅」と「古代インカ・アンデス不可思議大全」です。
今回もマヤ・アステカと同じく紀行本と神話・歴史本のセットですね。
どちらか一冊と言われたら「へっぽこ紀行」の方を読んでいただきたいとブログに書いてましたが、私は神話を頭に入れてから読みたいので、「へっぽこ紀行」は後に読もうと思います。

3冊目のイースター島の本も楽しみですね。
もう執筆は終わってるそうなので、ゆっくり休んでいただきたいと思います。

学歴フィルター?

半年近く放置してしまった…。
色々ありました。
でもちっとは活動的にすべく新しい試みとして、世間で話題となっているツイッターの書き込みを引用してウンチク垂れてみようかと思います。

大東亜帝国w!
懐かしい(笑)
私が大学生だった20年前でもこう言われてました。あとMARCHとか日東駒専とか。
テレビでインタビューされてた学生はちょっと憤慨してたけど、実際にはこういうカテゴライズというか序列化を学生自身も受け入れて(自嘲入ってるかも知れないけど)楽しんでたような気がします。
私の出身校はあまりこういう括りに挙げられないマイナー校だったので、大勢の口にのぼる有名校が羨ましかった思い出があります。
あと第一志望には行けなかったので当時はちょっとコンプレックスを抱いてました。
しかし社会に出ると学歴は多くの要素の一つでしかなく、難関大を卒業したからといって幸せな未来が確約されているわけではないことを実感しそういう気持ちも次第に薄れていきましたね。
学歴フィルターは採用側の効率化という面が大かと思いますが、学生側も就活という捉えどころのないものに対して自分の立ち位置を求めるために、自ら親しんでいた面もあったかと思います。
就職をしたらしたで、企業規模や職種で新たなフィルターが発生するかも知れませんよ。配偶者の有無、子供の教育、住まいでもあるかも?
でもそこまで行ったら単なる言葉のオアソビであることに気付いてきます。