収容所群島(2巻の途中まで読んで)

一月に購入したソルジェニーツィンの「収容所群島」ですが、2巻の途中まで読み進めました。
このペースだと最後まで読み切るのは一年くらいかかりそうなので、途中途中で感想を書いていこうかと思います。

ロシア―――、という国は私にとってはある意味憧れの国です。
そのヤケクソぶりが羨ましく思うこともありますが、これを読むとやっぱりロシアに生まれなくて良かったなぁとしみじみ思います。

この本はソルジェニーツィン自身が入れられていた、ソ連時代の強制収容所(ラーゲリ)について、体験者の声を交えつつ詳述するドキュメンタリーです。

魔女狩りのような密告を受け、時に命を落とすような苛烈な取り調べをされ、ほんの形だけの裁判を経て囚人となった無辜のロシア人たち。
各地の過酷な収容所に家畜同然に送られ、定員を遥かにオーバーする収容所に寿司詰めにされて強制労働に従事させられました。
過酷な環境のなか数百万人が命を落としたと言います。

粗末な食事や不潔極まるパラーシャ(用便桶)、密告者、ならず者(ブラトノイ)…。
権力を傘に私服を肥やす秘密警察(チェーカー)や囚人を苛む獄吏の醜い姿が繰り返し描かれます。
そしてソルジェニーツィンの逮捕のきっかけとなった、国家の父、髭の親父。

にも拘わらず「私はあの醜い世界をほとんど愛さんばかりであった」(前文の一節)
これ以上ない暗いテーマですが、時に噴出したくなるほどのユーモアが顔を出すこともあり、作家の、ロシアの、懐の深さを感じます。
特にフルシチョフの運転手で、ミハイル皇帝を自称した囚人の話は童話のよう。
これらのユーモアは、地獄のラーゲリでさえ挫けなかったソルジェニーツィンの不屈の魂の表れでしょう。

以下、書抜きを中心に感想を綴っていきたいと思います。

ここが不思議なところだが、犠牲者みずから係官たちに呼吸を合わせて、できるだけ上品にふるまい、他の人びとに俺はもう駄目だということを少しも気づかせまいとするのだった。

最初の章では囚人(ゼック)がいかにして逮捕されるかが説明されるのですが、なんとも背筋が冷たくなります。

あなたは口をふさがれてはいない。だからあなたは叫ぶことができるし、また必ず叫ばなくてはいけないはずなのだ!
おれは逮捕された! 変装した悪党どもが人びとをつかまえている! 嘘の密告でつかまえている! 何百万という人間に秘かな制裁が加えられている! と叫ばなければいけないのだ。
そういう叫びを日に何度も町のそこここで耳にしたら、わが同胞も憤激したかもしれないではないか? そうなれば逮捕もそうやすやすとは行われなかったかもしれないではないか?!

逮捕は至る所で行われていました。日中の街中でも。
しかしほぼ例外なく、被害者は子羊のように粛々と逮捕に従ったそうです。
う~ん、日本人ではないですよね?
肉ばかり食べてたはずのロシア人ですら国家権力の前にこれほど従順になってしまうのなら、日本にチェーカーが生まれたらどれほど仕事がしやすいことでしょうか?

これは子煩悩が善良さの証拠ではないのと同様である(「彼は善良な家庭人だ」といって、悪党を正当化している場合がしばしばある)。
最高裁長官I・T・ゴリャーコフはよく次のように称賛されている。
彼は庭いじりが好きだった。読書が好きで、古本屋へよく出かけて行った。トルストイ、コロレンコ、チェーホフを愛読していた。
いったい、これらの作家から何を学んだというのか。学んだというならなぜ何千という人の生命を奪ったのか。

第四章「秘密警察」は第一部の白眉と言える箇所で、名フレーズが連発されます。
文学者らしく、ラーゲリを単に「民族の悲劇」というスケールを超えて、人類普遍のテーマにまで昇華させんと筆を振るいます。

前世紀の偉大なる世界文学は、すこぶる腹黒い悪党どもの見本をいくつもいくつも創り出している―――シェークスピアも、シラーも、ディケンズも。
が、それらはもはや私たちにはいくらか滑稽に見え、現代感覚にはそぐわないように思われる!
これらの悪党は逃げも隠れもせず自分を悪党と認め、自分の心は黒い邪悪なものだと自覚している。

いや、そんなことはない! 悪をなすには、人間はそれ以前にそれを善と見なすか、あるいは自明の必然的行為と認めなければならないのだ。
幸いにも、人間の本質とはそういうものであり、人間は自分の行為を正当化しなければならないのだ。

イデオロギー!―――それは邪悪な所業に必要な正当化と悪党に必要な長期にわたる頑強さを与えるものである。

そのむかし学校の授業で、世界恐慌のなかソ連が5ヵ年計画で堅調に経済成長を果たしたことを勉強した覚えがありましたが、そのカラクリがラーゲリの強制労働にあったとは…。
社会主義の優位性を喧伝したいばっかりに、人民の生命など毫毛ほどにも思わずなりふり構わず突進したわけです。
わたしはそんな社会もイデオロギーもまっぴら御免です。

物理学では臨界数値や臨界状態が知られている。それは、自然にしか知られていない自然によって暗号化された限界を超えなければ現れてこない現象のことである。
酸素をマイナス百度以下に凍らせて、いくら圧力を加えても、ガスはガスであって、全然音をあげない!
だが、温度がマイナス百八十度以下になったとたん、それは流れ出し、液体となる。

こうしてみてくると、どうやら、邪悪な所業というものも臨界数値なのであろう。
たしかに、人間は死ぬまで悪と善の間をあっちこっち揺れ動き、もがきながら、すべったり、転んだり、這い上がったり、後悔したり、またぼんやりしたりする―――だが、邪悪な所業の限界を超えないかぎり、人間はたち戻ることができる。その人自身はまだ私たちの望みの範囲内にとどまっている。悪行の密度、あるいはその程度、あるいは権力の絶対性によって、その限界を踏み超えるとき、その人間はもはや人類を去っていくのだ。
もしかしたら、永久にもどることなく。

長々と引用しましたが、これは悪に関する重要な考察だと思います。
いわゆる「一線を越える」というやつですか。
臨界状態というのは、ふつう教科書では「相転移」と呼ばれてますね。いかにも理系出身らしい洞察だと思います。
脳科学がさらに発展したら、実際に脳内で不可逆的な変化が起こっていることが発見されるかも知れません。

この狼のような種族はどうしてわが民族にあらわれたのか。まさかそれはわが民族に根差すものではないだろう? わが民族の血ではないだろう?
いや、わが民族のものなのだ。

これはぞっとしない記述です。
もしかしたら悪が、DNAレベルで組み込まれているかもしれない?!
無論自分も例外ではなく。

私は自分をまったく献身的な人間だと自負していた。が、その間にも私は死刑執行人として一人前になっていた。
もし私がエジョフ時代に内務人民委員部付属の学校へ入っていれば、ベリヤ時代にはその場にふさわしい人間として成長していたのではなかろうか…

ソルジェニーツィンは大学を出たあと将校養成学校を卒業し、大尉の階級を持っていました。
で、第二次世界大戦中のドイツとの戦線に従軍している最中に逮捕されました。
手紙を検閲され、スターリン批判を見咎められて。

のちに軍人時代を振り返って、秘密警察同様に、軍隊生活も人間性を失っていくプロセスだったと気が付きます。
一歩道を違えれば、自分こそが拷問マシーンのような青服(秘密警察の制服)になっていたのだと…。

もし物事が次のように簡単だったら、どんなに楽なことか!
どこかに悪党がいて、悪賢く悪事を働いており、この悪党どもをただ他の人びとから区別して、抹殺さえすればよいのだったら。
ところが、善と悪とを区別する境界線は各人の心のなかを横切っているのであり、いったい、誰が自分の心の一部を抹殺することができるだろうか。
人生の流れによって、この境界線はその心の上を移動していく。時には歓喜する悪に圧迫されて、時には花咲く善に場所をあけながら。
同一人物がその年齢によって、または置かれた環境によって、まったく別人になることがある。悪魔に近い人間になったり、聖人に近い人間になったりする。

しかしだからといって「臭い物に蓋をする」式に悪と妥協することは真っ向否定し、ドイツの戦後の清算を範として「この連中をすべて捜し出し、この連中をすべて裁かなければならぬ!」と激しく訴えています。
もしそうしなければ、若い世代は卑劣な行為がこの世で罰せられることなく、かえって富裕をもたらすことを学び取ってしまい、その悪徳は何千倍にもなって芽を出してくるからです。

もしもいつの日にか銃殺された人びとの縁者たちが、一つの出版社に死刑にされた身内の写真を渡して、それらの写真が数巻のアルバムとなって出版されるとしたら、それらをめくり、その光輝を失った目に別れの一瞥を与えるとき、私たちは自分たちの残された人生のために多くのことを汲みとれるに違いない。

ここにこれらの記憶を刻み付け、無辜の人びとの苦しみが無駄にならないために、ソルジェニーツィンからの一つの提案があります。
この写真集の計画が実現されたかどうかは分かりませんが、本の中でほんのささやかに再現されています。
第二巻の163ページです。
このページが数千、数万ページと続くとしたら、その無言の眼差しを誰も決して正視しえないのではないかと思います。