通勤について

だいぶご無沙汰していました…。
夏~秋口にかけては仕事がかなり多忙で、なかなか自由な時間を持てませんでした。
10月末で別業務に異動することとなり、その引継ぎ作業やらで忙殺されていました。今のところは異動後のバタバタも一段落ついて、仕事の上では割と余裕が持てています。

しかし、異動したことで勤務地も変わり通勤時間が大幅に長くなってしまいました。
これまでは川崎だったので、片道30分くらいだったのですが、およそ3倍の一時間半ほども掛かります。
東急東横線で渋谷に出て、京王井の頭線に乗り換えて吉祥寺まで行き、そこから更にバスに乗ります。

朝の東横線はヤバい…。
初日にいきなりもみくちゃにされ、強烈な洗礼を浴びさせられました。
京浜東北線だと運良ければすわれることもありましたが、東横線だとまぁ千に三つといったところでしょうか。
各停なら菊名で始発待ちすれば座れないこともないと思いますが、東横線のほぼ端から端まで乗るので、ただでさえ通勤時間が長いのにそんなに時間をかけたくないなーと思います。

仕事は余裕が出てきたのにこの路線のせいでストレスが異常ですよ…。
ニンゲン…、ヤバい。
みんな善男善女みたいな顔しながらグイグイ押してきます。
例えば、座れないまでもどこかの吊革にやっとしがみついて、目の前の網棚に鞄を置くじゃないですか。そうしたら、その吊革の真下は紛れもなく「私の場所」の筈――。それが通じない。
ヒヨシあたりから金型に流し込まれるようにゾロゾロ乗って来た乗客が、人の法よりも液体の法則に従ってグイグイ押してきます。
無論その前から車内は満員で、隣の乗客との隙間なんて無いんですよ。
それを知ってか知らずか「自分さえ乗れれば後は知らねー」とばかりにエゴ丸出しで押してきます。
しかし、吊革はこの1ダースもの成人病を抱えた東京という中年の硬化した動脈を流れるコルステロールまみれの血液を泳ぎ切るための「浮き輪」なので、どうしても手放す訳にはいきません。
なので生き汚く吊り輪にしがみつきながらバナナのように身体を曲げて、何千人ものエゴイストを満載した箱に揺られて渋谷を目指すことになります。
渋谷駅に吐き出された後はもうボロボロですよ…。

いったい誰もこんな状況をおかしいと思わないのでしょうか?
自由が丘だ、田園調布だ、ナカメだのとハイソを気取っておいて、その実は毎朝押し合いへし合い、息も吐かせぬほどの混雑の中で、他人も「自分自身」もの尊厳を踏みにじっていることに気が付いていないのでしょうか?!?
今世紀後半では、旧ソ連のラーゲリよろしく日本民族の心に後ろ暗い記憶として刻まれていること請け合いですが、「今」それを公然と指摘できる人はいないのですか?
それとも私が日本のソルジェニーツィンにならなければならのいのでしょうか――。

とまぁ、変なことを考えるくらい辛いものがあります。
こんな環境でもたくましくスマホをいじってる人がいますがー、私には無理ですね。だいたい音楽を聴くか、録音していたラジオを聞いてやり過ごしています。
二週間くらい通勤して分かったのは、とにかく車両の奥に行くことですねー。
入口近くだと乗降客の流れに洗濯機の中の靴下みたいにモミクチャにされます。
車両の中央、もしくは連結部のそばにまで行ければ人の流れが少ないので無難にやり過ごせます。液体の法則ですね。

しかしそんな思いをして辿り着いた渋谷も単に中継監獄(注:ソルジェ用語)に過ぎない…。
東急渋谷駅は地下深くにある(なぜ?)
そこからわざわざマークシティの上にある京王線の改札まで移動しなければなりません。その道順が迷路過ぎて何度間違えたことか…。もう慣れたので大丈夫ですが。
慣れないのは遠さ!
地下5階(?!)の東急の改札から、地上2階の京王まで毎日7階分の移動ですよ?!
それに加えて人の多さ。
とちゅう半蔵門線からJRに乗り換える人の流れが京王線を目指す流れと直角にぶつかるため、その「大河」を毎回渡航しなければならず辟易させられます。
例によって液体と化した連中は「絶対通らせないぜぇー」と言わんばかりに距離の詰まった行列を形成し、人間らしさを失った横目でこちらを白眼視してきます。
その進化しすぎたゴジラみたいに八心室もある心臓を流れる憎悪を運ぶ赤血球を押し分けて向こうに渡るわけですが、ここでもコツが…。
それは白刃を晒して凄む――。ではなく、いったん列に並び流れに同化しつつ徐々にスライドし反対側に抜けることです。ただ、急いでいる時は本当にイライラしますね。

マークシティの2階まで上がると改札まではぶわ~っと道いっぱいに広がった人の流れと逆行して進むことになります(これもまたシンドイ)
しかし、上りと下りでこうも掌を返すみたいにと感心するのですが、吉祥寺行の井の頭線は激空きです。
改札に近い5号車は駆け込み客で混むことがありますが、先頭車両に行くほど空いていて、座れないことはまずありません。私はだいたい端の席を確保して居眠りをキメ込んでいます。超絶圧縮の東横線の後だけに癒されますねー。
不満と言えば私が利用する8時台は何故か各停しかないため無駄に時間がかかる点ですが、まぁ目をつぶろうという気になるいっときのオアシスです。

吉祥寺からはバスとなります。
5分間隔くらいで出ているので、いつもそれほど待たずに乗れるのですが、ここでもやっぱり超満員です。
これが2、3駅くらいだったら歩くのですが、わりと結構あるんですよね。
ただ歩いて出勤してくる人もいなくもないです。
バスは乗車時の先払いなので近距離だともったいない気がしなくもないです。
慣れてきたら運動不足解消のため歩いても良いかも知れませんね。

パソコン20年史

この間のオウム報道に触発された――、訳でもないですが、ふと昔を振り返って自分のパソコン史をまとめておきたくなりました。
指折り数えたところ、このまえ記事にしたLenovo ideapad520で6代目ということになります。(サブで使っていたノートパソコンや、サーバなどは除いて)

以前はいじりやすいデスクトップを所有して、改造に血道を上げていましたが、この頃はそのままでも充分速いことと、年のせいかイロイロとめんどくさくなり、お仕着せで良いやという心境にまで至ってますね。

ただ、この機会に昔のパソコンのことを調べてみると、あの頃のロマンが蘇るというか、青春の埋火のようなものを感じずにはいられませんでした。
多分私のようなかつてのパソコン大好き少年(今はパソコン愛好中年?)にはそれぞれのパソコン史があり、思い入れのあるモデルがあるのでしょう。
そんな私のパソコン20年史です。

~1代目~
東芝 DynaBook GT-R590
現役期間:1995~2000年

ノートパソコンです。
父親が仕事で家に持ってきたもので遊ばせて貰っていました。
二台あって、それぞれWin3.1とWin95が入ってました。

CPUは初代Pentium90MHz、メモリ8MB、HDDは810MBという、今にしてみると想像を絶する低スペックですね。
大したアプリは入ってなかったのですが、「ホバー」とか「マインスイーパー」とかOSに付属しているゲームでバカみたいに遊んでいました。

同級生にパソコン好きがいて、彼はNECのPC98を持っていました。
それは言うまでもなくHなゲームをするためだったのですが、当然インストールしてくれとお願いすることとなります。
結構仲良かったので快く引き受けてくれたのですが、インストールできず…。
あの手この手と試してみても、結局上手くいかず断念しました。
原因はNECはPC-98 DOS、東芝はDOS/VとOSが異なっていたせいですが、当時は良く分からず混乱してましたね~。

結局このノーパソは「ワード」で学校のレポートを作ったり、「ペイント」でお絵かきしたりというまっとうな用途にしか使われませんでした。
それでも初めて触れたパソコン、初めてのWindows体験で、触れているだけですごく楽しかったことを覚えています。

その後、大学進学に伴い上京したのですが、このパソコンは持っていきませんでした。
大学のコンピュータ室にあったのはマック(iMacの前の世代)で、インターネットに初めて触れたのはこれですね~。
ブラウザはネットスケープでした。
掲示板に初めて投稿した時の感動をいまでも覚えています。

しかしレポートとかで個人のパソコンが必要になってきたので、母親に頼んでこのダイナブックを送ってもらいました。
当時としてもやはり性能がイマイチだったので、メモリを増設(8MB→40MB)するなどしましたが、力不足は否めず、21世紀に入ると同時に後進に道を譲ることに…。
ちなみに32MBの増設メモリに一万二千円使いました。今思うとなんと高価なメモリだったことか…。

~2代目~
NEC PC-9821 VALUESTAR V16
現役期間:2001~2002年

これはタワー型デスクトップですね。
憧れ(?)のPC98です。
友人が使わなくなったのを1万円で譲ってもらいました。

スペックはCPU Pentium166MHz、メモリ32MB、HDD3GB(うろ覚え)と微増。
残念ながらこれでは全く使えないので、結構な投資をして改造をすることに――。
ただPC98の時代は終わりつつあり、結構な出費を強いられることになりました。

まず、BuffaloのHK6-MD400というCPUアクセラレータを使用して動作周波数を400MHzにアップしました。
2万円くらいしました。
さらにメモリを増設して96MBに。これは1万円くらいの投資だったはず。

それからグラフィックボードも増設したのですが、PC98用のグラボというのはあまりなく苦労しました。
IOデータのGA-S2K32/PCIというのを探し出して買った思い出があります。これも2万円くらいしたかな~。
最終的に5万円くらい追加投資したことになりますね…。
新しいパソコンを買ったほうが安かったのでは…?という気がしなくもありません。
ただ当時はパソコンを少しでも速くするためにアレコレと試行錯誤するのがものすごく楽しかった。
将来ITの道にすすむ、その萌芽がこの時期に生まれた気がします。

また、家でダイアルアップでインターネットに初めて接続したのもこのパソコンです。
プロバイダはライブドアでした。
ゼロと並んでプロバイダー料無料というのがウリだったんですよね。
あの接続するときの「ピー、ピロピロ…」という音が懐かしいです。
しかし、ある月に通信料を一万円以上使ってしまい父親から怒られてからヤフー!BBに乗り換えました。

かなり愛着のあるパソコンでしたが、ある時ブラウザクラッシャー(流行っていた)を踏んでしまい、それ以降起動しなくなってしまったので乗り換えを余儀なくされたのでした。

~3代目~
DELL DimensionV400c
現役期間:2002~2005年

これもタワー型デスクトップです。
先代が急逝してしまったため、急きょハードオフで求めたデルのパソコンです。
スペックはCeleron400MHz、メモリ64MB、HDD8.4GBでした。

値段は3万くらいだったと思います。スペックをなるべく落としたくないのと、金額とのバランスで相当悩んだことを覚えています。
前のパソコンの増設メモリとグラボはそのまま使えました。
CPUは後に秋葉原でPentium3 650MHzを購入して換装しました。

これは後にメイン機を退いた後もLinuxをインストールしてサーバとして活躍してくれました。
(電話帳みたいなサーバ構築本に付属していたFedora Core6でした(インストールCDが5枚もあった))
色々と勉強させてくれた、愛着あるパソコンでしたね。

~4代目~
Sofmap 牛丼パソコン並盛
現役期間:2005~2009年

これは初のメーカー以外のパソコンですね~。
ソフマップが出していたショップブランドPCです。
就職してお金ができたため、パソコンを買い替えようと思い立ちアキバに繰り出しGETしました。

「牛丼パソコン」というのがいかにもデフレ臭です。他にも「バーガーパソコン」などのラインナップがありました。

スペックは、CPU CeleronD2.53GHz、メモリ256MB、HDD128GB、OS無し。値段は4万円ほどでした。
スリムタワー型で黒い筐体でしたね。
スタイリッシュでしたが、冷却ファン音がかなりうるさかったです。

これは最もスピードアップを感じた乗り換えでした。
これ以降、実用的にはもう困ることはなくなりました。

~5代目~
グッドボックス(BTO)
現役期間:2009~2018年

つい最近までメインPCとして使っていました。実に9年にも渡って現役を張ってくれました。

名古屋に引っ越したころ、“OSx86“というパソコンにmacOSを入れるプロジェクトを試してみたくなったためBTO屋に依頼して作ってもらったものです。
スペックは、CPU C2D(E7500)2.93GHz、メモリ4GB、HDD500GB
お値段は5万5千円でした。

このマシンではMAC体験が出来て良かったですね。
ただ、新しいOSにアップデートできなかったので次第に使いづらさを感じ始め、2015年にWin8.1に乗り換えました。
さらに翌年にはWin10にアップデートしています。
ただ実用的には困っていませんし、この9年間でハードに加えた変更は4Kテレビに映すためにグラボを変えたことくらいです。

こうして20年間を振り返ると、もうパソコンの性能は充分に成熟して、普通に使う分にはユーザを煩わすことは無くなったのだなと感じます。
ただ、手のかかる子ほど可愛いではありませんが、パソコンを少しでも速くするために試行錯誤していた時代が懐かしくも思えます。

6代目はこの記事に紹介していますが、もしかして10年以上使うことになるのではないかという予感がしています。

オウム真理教の思い出

遂にこの日が来たか?!という感じです。
麻原彰晃と教団幹部らの死刑が執行されました。

サリン事件の当時、私は中学生でしたが、当時の報道たるや凄かったですね~。
毒ガスとか兵器を秘密裏に作ろうとしていた「サティアン」とか、ヘッドギアをして座禅をしながらピョンピョン跳ねる謎の修行とか、尊師の入った風呂の残り湯を高値で売って有難がって飲むとか…。
あまりの異質のカルチャーに、多感な時期の我々は眉をひそめた――、などということは決してなく、面白がってネタにしていました。
友人同士を「ホーリーネーム」で呼び合う。「ポア」という言葉が飛び交う。体育の時間に跳び箱を座禅で飛ぼうと試みる。プールは「水中クンバカ」大会と化すなど、中学生時代の思い出はオウムと切っても切り離せません。

当時は九州の片田舎で暮らしていたので、オウム事件も対岸の火事。遠く離れたところで起こった現実感に乏しい出来事でした。
そのころ林間学校か何かの余興で、オウムの幹部村井の刺殺事件を寸劇にして怒られた中学生がいましたが、シンパシーを覚えたように思います。
犯罪のリアルな恐怖はなくブームとして消費していて、渋谷にあるオウムショップに行きたいな~とか、秋葉原の「マハーポーシャ」でパソコン買いたいな…とか憧れを抱いていました。

そういう人間はやはり一定数いて、「オウマー」と称してネット黎明期にアングラサイトを立ち上げて楽しくやっていたようです。
今でも興味があるのか、別の何かを見つけたのか分かりませんが、いかにも90年代末期らしい「不謹慎上等」な空気にマッチしたようです。

これほどに当時の好事家に大きなトラウマを与えたオウムですが、猛スピードで走る時間の車窓からはその姿は次第に次第に小さくなり、時たま報道される逃亡犯逮捕のニュースを耳にしても「へー、まだ逃げてたんだ」くらいの感想しか抱かなくなって行きました。
通勤で千代田線を使うようになりましたが、本当に何の感慨もなく、日比谷で降りても「ここがあの大事件の現場であったか…」としみじみ思う、ということは一度もありませんでした。

麻原にしても死刑が確定してから長い月日がたち、死刑にすると信者に「殉死」みたいに捉えられると不味いから、獄死するのを待ってるのでは…?とちょっとうがったようなことすらぼんやり考えていたのですが、このタイミングで執行とは――。

ただ思うのは、あまりに多くの時間が経ったということです。
世の中にも、自分自身にも多くの変化が起こって、ほんのわずかな色あせた記憶となっていたものが、ついにピリオドを打って、永久に過ぎ去っていくんだなという予感です。

映画ビューティフルマインドを観て

2001年公開なので、かなり古い映画ですが、Huluでやってたのでなんとなく観てしまいました。

ラッセル・クロウ演じる変人の数学者が国家の陰謀に巻き込まれて~、みたいな内容なのですが途中から何か変だな…という感じになる。
ネタバレになりますが、実は統合失調症を患っていて、陰謀云々は妄想だったことが明らかになります。
これは実話で、ノーベル賞を獲ったジョン・ナッシュの半生が下敷きとなっています。

つまり、天才と○○は紙一重…。

雑誌からソ連のスパイの暗号を探し出そうと、部屋中を理解不能なメモでいっぱいにするシーンは、観客に思わず「アカン…、終わっとる…」と唾を飲ますものでしょう。
しかしその情熱や恐ろしいもので、これほどの熱量がまともな研究に向けられていたら人類の進歩にどれだけ貢献したことだろうと思われます。

ちょっと興味が沸いてウィキペディアで調べてみると、統合失調症の原因は未だによく分かっておらず、百家争鳴、仮説の域を出ない様々な説が唱えられている状態のようです。
そこで気になったのは遺伝説。
誤解があったら申し訳ないですが、以下のような内容(だと思います)
健常者の脳の容積は思春期以降に減少する。でもこれは脳を成熟させるために必要なこと。
その証拠に知能の高い人の脳は大きく減っていることが多いらしい。
で、統合失調症の患者の脳も委縮しているケースが多い。
つまり、脳の容積を減らす遺伝子が誤って動作して病気の原因になる。

この説が面白い、というか個人的に腑に落ちた点は、知能が高いほど実は脳が小さいという点。
知能が高い、というのは合理的な思考ができるということですよね。
それができるのはズバリ! 合理的な思考をする以外の脳が無くなっているから――(えーッ??!)

確かに10代の頃は多感な時期と言って、色んなことに興味があったり、詰まらないことでクヨクヨ悩んでみたりと、脳の合理的な部分も、非合理な部分も同時に活動していた感がありました。
大人になるにつれて非合理的な部分は無くなっていき、人生の様々な問題にあまり悩まずに回答が見つけられるようになる。
と同時に、新しいことへの興味が無くなり、音楽も聴かなくなり、パターン化された生活にも抵抗がなくなって行く――、と書くとサビシイですね。

多くの大人が辿るように脳の非合理的な部分が縮小していけば、良いんでしょうが、それがあべこべになると非合理的な思考が強化されて、統合失調症のような症状を生み出すのかなぁと勝手に想像しています。

前に、統合失調症を患った人の手記「ボクには世界がこう見えていた(小林和彦著)」を読んでとても共感を感じたことがありました。
何だか、自分にも統失の気があるんじゃないかとも思ったのですが、そう考えた人は意外と多いんじゃないかな?

ビューティフルマインドの中のジョン・ナッシュが恋人(後の奥さん)とデートしているシーンで、星空から「傘」の星座を見つけ出す(作り出す?)というとてもロマンチックな場面があるのですが、象徴的、というか後の展開を知っているとむしろ薄寒くなるシーンです。
それは無意味な星の分布から「傘」という意味ある形を取り出している訳で、のちの妄想のはしりのようにも受け取れます。

そこでふと思い出したのは、むかし父親の本棚のカメラ誌に載っていた川面の写真を見て、その水の反射が文字のように見えたこと。
もちろんそれは不規則な光の線の集まりでしかなかったのですが、その文字が読めてしまったら、わたしはアッチの世界に旅立ってしまってたかも知れませんねー。

そんなことを思いめぐらしながら、ふとトイレの天井を眺めていたら虫食いのような吸音ボードの穴が目に入りました。
そこには次の戦争が起こる日、震災が起きる場所、恐慌を引き起こす証券のコードが埋め込まれている可能性があります。
ですが、しばらく見つめていましたが、やはり虫食い穴にしか見えませんでした。

その虫食い穴のような模様は、ググったところ「トラバーチン模様」と言うそうでした。

最近のフィルム

この頃フィルム写真を撮る頻度が下がってますね~。
この週末で引っ越してから初めてフィルムの現像をしましたよ。

ぼつぼつアップしていきたいと思います。

これは引っ越す直前くらいに撮ったものです。
水元公園を撮り納め(?)に行った道すがらにカメラに収めたものです。

これは正月に旅行した長野の戸倉上山田温泉です。

堤防から望む千曲川。

翌日にちょっとだけ立ち寄った、善光寺です。
この日は雪がドカ降りして大変でした。

これは急に春。
お花見に行った目黒川沿いの公園で遊ぶ子供たち。

同じ日の夕刻に足を延ばした品川シーズンテラス。
都心は子供の遊び場?

こちらは近所の子供の遊び場。反町公園。

もう一枚。

GWに出かけた金沢の兼六園の内橋亭です。

これは金沢21世紀美術館のそばにある石浦神社です。
何かのお祭りをやっていたのか境内に屋台が並び賑わっていました。

これはごく最近。
みなとみらいから掃部山公園のあたりまで散歩した際に撮ったものです。

戸部付近のアパート。
やっぱり京急沿線は生活感が漂ってますね。

卸値プラザ「栄光」でお酒を買った後、近くの神奈川公園を通りかかった際に撮ったもの。
休日の公園に佇むサラリーマン。哀愁を覚えます。

横浜の埠頭へつながる道。
この一本の道を隔てて、マンションと掘っ立て小屋のような商店のコントラストが鮮やかです。

収容所群島(2巻の途中まで読んで)

一月に購入したソルジェニーツィンの「収容所群島」ですが、2巻の途中まで読み進めました。
このペースだと最後まで読み切るのは一年くらいかかりそうなので、途中途中で感想を書いていこうかと思います。

ロシア―――、という国は私にとってはある意味憧れの国です。
そのヤケクソぶりが羨ましく思うこともありますが、これを読むとやっぱりロシアに生まれなくて良かったなぁとしみじみ思います。

この本はソルジェニーツィン自身が入れられていた、ソ連時代の強制収容所(ラーゲリ)について、体験者の声を交えつつ詳述するドキュメンタリーです。

魔女狩りのような密告を受け、時に命を落とすような苛烈な取り調べをされ、ほんの形だけの裁判を経て囚人となった無辜のロシア人たち。
各地の過酷な収容所に家畜同然に送られ、定員を遥かにオーバーする収容所に寿司詰めにされて強制労働に従事させられました。
過酷な環境のなか数百万人が命を落としたと言います。

粗末な食事や不潔極まるパラーシャ(用便桶)、密告者、ならず者(ブラトノイ)…。
権力を傘に私服を肥やす秘密警察(チェーカー)や囚人を苛む獄吏の醜い姿が繰り返し描かれます。
そしてソルジェニーツィンの逮捕のきっかけとなった、国家の父、髭の親父。

にも拘わらず「私はあの醜い世界をほとんど愛さんばかりであった」(前文の一節)
これ以上ない暗いテーマですが、時に噴出したくなるほどのユーモアが顔を出すこともあり、作家の、ロシアの、懐の深さを感じます。
特にフルシチョフの運転手で、ミハイル皇帝を自称した囚人の話は童話のよう。
これらのユーモアは、地獄のラーゲリでさえ挫けなかったソルジェニーツィンの不屈の魂の表れでしょう。

以下、書抜きを中心に感想を綴っていきたいと思います。

ここが不思議なところだが、犠牲者みずから係官たちに呼吸を合わせて、できるだけ上品にふるまい、他の人びとに俺はもう駄目だということを少しも気づかせまいとするのだった。

最初の章では囚人(ゼック)がいかにして逮捕されるかが説明されるのですが、なんとも背筋が冷たくなります。

あなたは口をふさがれてはいない。だからあなたは叫ぶことができるし、また必ず叫ばなくてはいけないはずなのだ!
おれは逮捕された! 変装した悪党どもが人びとをつかまえている! 嘘の密告でつかまえている! 何百万という人間に秘かな制裁が加えられている! と叫ばなければいけないのだ。
そういう叫びを日に何度も町のそこここで耳にしたら、わが同胞も憤激したかもしれないではないか? そうなれば逮捕もそうやすやすとは行われなかったかもしれないではないか?!

逮捕は至る所で行われていました。日中の街中でも。
しかしほぼ例外なく、被害者は子羊のように粛々と逮捕に従ったそうです。
う~ん、日本人ではないですよね?
肉ばかり食べてたはずのロシア人ですら国家権力の前にこれほど従順になってしまうのなら、日本にチェーカーが生まれたらどれほど仕事がしやすいことでしょうか?

これは子煩悩が善良さの証拠ではないのと同様である(「彼は善良な家庭人だ」といって、悪党を正当化している場合がしばしばある)。
最高裁長官I・T・ゴリャーコフはよく次のように称賛されている。
彼は庭いじりが好きだった。読書が好きで、古本屋へよく出かけて行った。トルストイ、コロレンコ、チェーホフを愛読していた。
いったい、これらの作家から何を学んだというのか。学んだというならなぜ何千という人の生命を奪ったのか。

第四章「秘密警察」は第一部の白眉と言える箇所で、名フレーズが連発されます。
文学者らしく、ラーゲリを単に「民族の悲劇」というスケールを超えて、人類普遍のテーマにまで昇華させんと筆を振るいます。

前世紀の偉大なる世界文学は、すこぶる腹黒い悪党どもの見本をいくつもいくつも創り出している―――シェークスピアも、シラーも、ディケンズも。
が、それらはもはや私たちにはいくらか滑稽に見え、現代感覚にはそぐわないように思われる!
これらの悪党は逃げも隠れもせず自分を悪党と認め、自分の心は黒い邪悪なものだと自覚している。

いや、そんなことはない! 悪をなすには、人間はそれ以前にそれを善と見なすか、あるいは自明の必然的行為と認めなければならないのだ。
幸いにも、人間の本質とはそういうものであり、人間は自分の行為を正当化しなければならないのだ。

イデオロギー!―――それは邪悪な所業に必要な正当化と悪党に必要な長期にわたる頑強さを与えるものである。

そのむかし学校の授業で、世界恐慌のなかソ連が5ヵ年計画で堅調に経済成長を果たしたことを勉強した覚えがありましたが、そのカラクリがラーゲリの強制労働にあったとは…。
社会主義の優位性を喧伝したいばっかりに、人民の生命など毫毛ほどにも思わずなりふり構わず突進したわけです。
わたしはそんな社会もイデオロギーもまっぴら御免です。

物理学では臨界数値や臨界状態が知られている。それは、自然にしか知られていない自然によって暗号化された限界を超えなければ現れてこない現象のことである。
酸素をマイナス百度以下に凍らせて、いくら圧力を加えても、ガスはガスであって、全然音をあげない!
だが、温度がマイナス百八十度以下になったとたん、それは流れ出し、液体となる。

こうしてみてくると、どうやら、邪悪な所業というものも臨界数値なのであろう。
たしかに、人間は死ぬまで悪と善の間をあっちこっち揺れ動き、もがきながら、すべったり、転んだり、這い上がったり、後悔したり、またぼんやりしたりする―――だが、邪悪な所業の限界を超えないかぎり、人間はたち戻ることができる。その人自身はまだ私たちの望みの範囲内にとどまっている。悪行の密度、あるいはその程度、あるいは権力の絶対性によって、その限界を踏み超えるとき、その人間はもはや人類を去っていくのだ。
もしかしたら、永久にもどることなく。

長々と引用しましたが、これは悪に関する重要な考察だと思います。
いわゆる「一線を越える」というやつですか。
臨界状態というのは、ふつう教科書では「相転移」と呼ばれてますね。いかにも理系出身らしい洞察だと思います。
脳科学がさらに発展したら、実際に脳内で不可逆的な変化が起こっていることが発見されるかも知れません。

この狼のような種族はどうしてわが民族にあらわれたのか。まさかそれはわが民族に根差すものではないだろう? わが民族の血ではないだろう?
いや、わが民族のものなのだ。

これはぞっとしない記述です。
もしかしたら悪が、DNAレベルで組み込まれているかもしれない?!
無論自分も例外ではなく。

私は自分をまったく献身的な人間だと自負していた。が、その間にも私は死刑執行人として一人前になっていた。
もし私がエジョフ時代に内務人民委員部付属の学校へ入っていれば、ベリヤ時代にはその場にふさわしい人間として成長していたのではなかろうか…

ソルジェニーツィンは大学を出たあと将校養成学校を卒業し、大尉の階級を持っていました。
で、第二次世界大戦中のドイツとの戦線に従軍している最中に逮捕されました。
手紙を検閲され、スターリン批判を見咎められて。

のちに軍人時代を振り返って、秘密警察同様に、軍隊生活も人間性を失っていくプロセスだったと気が付きます。
一歩道を違えれば、自分こそが拷問マシーンのような青服(秘密警察の制服)になっていたのだと…。

もし物事が次のように簡単だったら、どんなに楽なことか!
どこかに悪党がいて、悪賢く悪事を働いており、この悪党どもをただ他の人びとから区別して、抹殺さえすればよいのだったら。
ところが、善と悪とを区別する境界線は各人の心のなかを横切っているのであり、いったい、誰が自分の心の一部を抹殺することができるだろうか。
人生の流れによって、この境界線はその心の上を移動していく。時には歓喜する悪に圧迫されて、時には花咲く善に場所をあけながら。
同一人物がその年齢によって、または置かれた環境によって、まったく別人になることがある。悪魔に近い人間になったり、聖人に近い人間になったりする。

しかしだからといって「臭い物に蓋をする」式に悪と妥協することは真っ向否定し、ドイツの戦後の清算を範として「この連中をすべて捜し出し、この連中をすべて裁かなければならぬ!」と激しく訴えています。
もしそうしなければ、若い世代は卑劣な行為がこの世で罰せられることなく、かえって富裕をもたらすことを学び取ってしまい、その悪徳は何千倍にもなって芽を出してくるからです。

もしもいつの日にか銃殺された人びとの縁者たちが、一つの出版社に死刑にされた身内の写真を渡して、それらの写真が数巻のアルバムとなって出版されるとしたら、それらをめくり、その光輝を失った目に別れの一瞥を与えるとき、私たちは自分たちの残された人生のために多くのことを汲みとれるに違いない。

ここにこれらの記憶を刻み付け、無辜の人びとの苦しみが無駄にならないために、ソルジェニーツィンからの一つの提案があります。
この写真集の計画が実現されたかどうかは分かりませんが、本の中でほんのささやかに再現されています。
第二巻の163ページです。
このページが数千、数万ページと続くとしたら、その無言の眼差しを誰も決して正視しえないのではないかと思います。

金沢旅行

GWの連休を利用して、4/30~5/1に一泊二日で石川県金沢市に旅行に行ってきました。

東京駅から「かがやき」にて金沢駅を目指します。
朝の9時台の出発なのでちょっと眠い…。
ちなみに上は隣のホームに止まっていた「はやぶさ」です。

電車の旅は二時間半の道のりです。
大宮から一気に長野までノンストップで駆け抜けるのがスゴイ。
とちゅう日本アルプスの眺望ポイントに差し掛かると、社内アナウンスが教えてくれます。
多くの人が車窓にカメラを向ける瞬間。

お昼ごろ金沢駅に到着。
評判通りとても綺麗な駅です。鼓門も立派。
駅のバス乗り場にはすでに長蛇の列が出来ていましたが、最初の目的地、近江町市場までは歩いて向かいました。

道なりに進んで15分くらいで到着します。
連休中ということもあり、大変混んでいます。
市場は活気にあふれ、店先の海産物や特産品が目を楽しませてくれました。

ここで昼食に有名な海鮮丼を食べようかと思っていたのですが、行列がスゴイので諦め先に進むことにしました。

悔し紛れ(?)に立ち食いできる牡蠣をパクリ!
一個¥1,000也~

お次は旅の目玉と言える兼六園に向かいます。
とちゅう金沢城公園の中を通って、桂坂口から入場します。
この日は薄曇りで日差しが柔らかだったので歩くのに楽でしたね。

色々見どころは沢山あったのですが、個人的に印象に残った風景を載せていきます。

霞ヶ池の中にある内橋亭
中では食事も摂れる模様。和装でキメた人達の姿が見えました。

根上松
まるでガジュマル?!
根元に小人が潜んでそうです。

日本武尊像の近くの松
これもスゴイ曲線美ですね。

桜(?)でしょうか。残念ながら散ってしまった後

龍石
こちらに口を向けた頭に―――、見えますか?
文字通りリュウノヒゲが生えてます。
他にも虎石、獅子巌という石もあるそうですが気が付きませんでした。

兼六園の後は早めにホテルにチェックインし、一日目は終了。

二日目。

新幹線は夕方の予定なので今日は長丁場です。
朝向かったのは武家屋敷跡。
この日は快晴で朝から暑いくらいの天気でした。
ホテルは片町にあったので、ごく近かったので徒歩で向かいます。

さらっと見た後、ステンドグラスの神門が珍しい尾山神社を訪問。
境内は広く、色々なモニュメントが置いてあり観光客で混んでいました。
修学旅行なのか、先生に引率された中高生らしき姿も見えます。

この付近は周りの建物の雰囲気も良い感じでした。
その後神社を2、3巡りました。

昨日のリベンジで、海鮮丼を食すべく近江町市場へ。
昼近くになり気温がグングン上がり歩くのがシンドクなってきたため、バスを利用します。
金澤神社付近のバス停でしばし待ちます。

ちなみに巡回バスはどこで降りても¥200
祝日だと半額の¥100で乗れます。

この日は平日なので市場は昨日ほど混んではいませんでしたが、海鮮丼を出している食事処はかなり並んでいます。
特に下調べもなく「じもの亭」の行列に並びましたが、かなり待たされました。
小一時間かかったでしょうか?

当店一押しという海鮮丼(華)を注文します。
¥2,250也
ボリューム満点でおいしかったです。

あと石川県の珍味、ふぐ真子(ふぐの卵の糠漬け)も注文してみました。
こちらはお値段¥650
これは猛毒のふぐの卵巣を糠漬けにすることで毒抜きし食用に供するものです。
しかしその仕組みは謎であるというアバウトな特産品。
口に含むと強烈な塩味と糠漬けの風味が広がります。
いい酒の肴ですね。

旅の締めくくりは東山ひがし茶屋街へ。
武家屋敷に似てますが、あちらの歴史文化財という趣に対して、こちらはショッピングスポットという感じです。
それだけにより活気を感じました。

出格子のファサードが美しい茶屋が並んでいます。
店内も伝統的な家づくりとディスプレーをセンスよく組み合わせているようでした。

中でも、金箔製品のお店「箔座ひかり藏」の金の蔵はスゴイ。
中庭に全面金箔の蔵が建っていて、内部もキンキラキン(しかも怪しくライトアップされていました)
写真撮影をする観光客が列をなしていました。

なんかいいもの見た―――、気がしますがここでは特に何も買いませんでした。
だって金箔入りのお茶とか体にいい気がしないので。

その後は、夏のような暑さだったのでお茶屋さんに避難。
抹茶ぜんざいで涼を取りました。
こうして金沢滞在の残りわずかな時間を古風な茶屋で過ごしたのでした。

Lenovo ideapad 520

久しぶりにパソコンを購入しました。
Lenovoの“ideapad 520”というノートパソコンです。
今まで使っていたのは2009年に買ったBTOのデスクトップパソコンだったので、およそ9年ぶりの買い替えですね。
特に壊れたとか、遅くなったとかではなく、新居でデスクトップパソコンを置く場所が無くなったので購入を決意しました。
それが無ければまだしばらくはデスクトップで粘ったでしょうね~。

用途はネットやオフィスを使う程度のライトユースです。
なのでいつも通りのコスパ重視で、価格コム首っ引きでチョイスしました。

重視したのは動画を綺麗に見たいのでフルHD(1920×1080ピクセル)であること。
あと、恐らくまた10年近くは使うだろうので、CPUとメモリはそれなりのものを選びました。

スペック

  • ディスプレイ : 15.6型 IPS液晶 光沢なし
  • CPU : Core i5-8250U
  • OS : Win10 Home(64bit)
  • メモリ : 8GB
  • HDD : 1TB(5400回転)
  • DVDドライブ付き

以上で、税込み¥66,960也~
カラーはアイアングレーとシャンパンゴールドがあるのですが、アイアングレーの方は売り切れのようなのでシャンパンゴールドにしました。
これはこれで良かったと思います。

ideapad 520はセミBTOみたいな感じで、価格に応じてオプションを色々付けることができます。
値段の割には上々のスペックかと思いますが、HDDがちょっとショボイ…。
これを+1万でSSDに変えることが出来ます。
ちょっと迷いましたが、過去にSSDを買ってあっという間に故障したトラウマがあることと、後から載せ替えも出来そうなので見送りました。
ほかにはグラフィックボードを付けたり、オフィスソフトを付けたりというオプションもあります。
あと個人的にDVDドライブは不要かな~と思ってます。

使用感ですが、ほぼ10年振りの買い替えで、めっちゃ早くなってるんだろーなーと思っていたら意外と普通です。
買い替え前のデスクトップはCPUはC2D E7500、メモリ4GBで2倍くらい性能アップしてるハズですが、普段使いからはそれほどには感じませんね~。
ただエンコードみたいな重い作業をするとやっぱり早いので、私の用途にはトゥーマッチなのかな?とも思います。

最大の不満はキーボードで、最近よくある浮石型。
掃除はしやすそうだな~と思いますが、ストロークが浅くてちょっと打ち辛いです。
そしてファンクションキー(一番上の段の、F1~12のキー)がデフォルトでは音量調節や機内モードの切り替えに割り振られているので、ファンクションキーを多用する私には辛いものがあります。
これはBIOSの設定で直せてメデタシなのですが、個人的にもにょった部分ですね。

ただ今のところその他には不満はなく、良い買い物が出来たかなと思います。

最近のリカー

亀有に住んでいたころは近所に業務スーパーがあり重宝してたのですが、横浜に引っ越してからは近所にないようで不便していました。
しかしこの間お花見場所を探してブラブラしていると、卸値プラザ「栄光」を発見。
そのいかにも業務スーパー然とした武骨な店内に陶然とします。

そして2Fのリカーコーナーの品ぞろえに思わず発狂!
特にワインは壁一面に陳列されておりその威容に思わず後ずさりします。
とはいえその時はお花見の途中なので、欲望のままにボトルをカートにぶち込む訳にも行かず、後日再訪を果たしたのでした。

ワインの品ぞろえが特筆ものなのですが、あまり詳しくないので専門分野(?)のウィスキーを物色します。
ウィスキーの品ぞろえは特別豊富という感じではないですが、卸売店らしい格安価格がうれしい。
で、埃を被ったオールドパーの棚が目に入ります。
750mlで¥3,500くらい。う~む、お安い(気がする)

それからカルーアミルクでお馴染みのカルーアを買いました。こちらは¥1,000ちょっとくらいでした。

開封の儀。
そう言えば昔、オールドパーを買ったのを記事にしたことがありますが(9年前!)
その時は並行輸入品だったので、詰め替え防止の弁(玉)が付いていました。
あとラベルも違ったんですね…。(パーお爺さんの肖像が付いている)

お味は穏やかで、昔と変わらない(と思います。9年ぶりなのでハッキリとは覚えていませんが)
しかし、その後シングルモルトにはまって強烈な個性のスコッチを飲んだせいか少々物足りないものを覚えるのも事実…。
変わらない味に、変わった自分を感じるリカー体験でした。

神奈川県古書会館

いやー、あるんですよね。近所に。
反町公園に面して建つビルです。
もちろん気になってましたよ。

とは言え店というには色気の無さすぎる外見、普段ずっとシャッターが閉まってるんで、一体どういう施設なのかと思っていました。
するとこないだフラリと前を通りかかったら、オープンしているではないですか?!

あー、こういうフリマ風に売ってるわけですね。
大仰な名前の割には質素な商いです。
とは言え古本に目のない私は、なにか掘り出し物が無いか焼けた背表紙に視線を走らせます。

かねてより気になっていた、黒澤明の「デルス・ウザーラ」の原作本が目に入ります。
げ、結構お高い…。千円しました。
ただこの間のソルジェニーツィンで経済観念が少しシビレをきたしたのか、「まいっかー」とばかりにレジに持っていきます。
あとついでに開高健の「日本三文オペラ」も。こちらは三文、ではなく100円でした。

レジでの会計の際に、おじさんが本から書店名の書かれたスリップを引き出します。
「デルス・ウザーラ」と「日本三文オペラ」には別々の書店のスリップが。
これはもしかして各本屋の売り上げを後で勘定するため…?
ってことは、神奈川県古書会館は神奈川の古本屋のコンソーシアムってことですかー。