第9回 人形(ヒトガタ)展

今日は秋晴れのいいお天気でした。ちょっと暑いくらいでしたね。
丸善本店で、9月24日から30日の会期で、創作人形の展示即売会「第9回 人形(ヒトガタ)展」が行われているということなので、用事のついでに見てきました。
入場無料なり。

このような素晴らしい催しが既に9回も行われていたとは…。
今回はたまたま知りましたが、これからはもっと頻繁にチェックしよう。

大手町駅から目と鼻の先だというのにかなり迷いました。
う〜む、カッペ丸出しである。

1F入口近くのディスプレイ。
否が応でも期待が高まります。会場は4Fギャラリーです。
30人くらいの作家が参加しているので、各ブースはかなり手狭な感じでした。
それぞれ数体づつ数を絞って出品されてました。

一番印象的だったのは、「玉青」先生の猫の人形
猫なのに人形と呼んでよいか判りませんが。
リアルな造作と、球体関節が凄かった。
特に尻尾まで球体関節で作られていて、玩具の竹蛇を思わせました。

さて今回は即売会なので、人形のリアルなプライスがわかります。
密かに目当てにしていた陽月先生のおドールの値札に目を遣ると、すでにSold outであることを示す赤いシールが貼ってありましたが、シールを透かして確認することが出来ました。
そうですか…、54諭吉ですか。

カズオ・イシグロ

カズオ・イシグロの作品を続けて4冊読んだので、感想を記録しておこうかと思います。

読んだ順番に、
「わたしたちが孤児だったころ(2000年)」
「日の名残り(1989年)」
「浮世の画家(1986年)」
「充たされざる者(1995年)」
です。

寡作なので、あと読んでいないのは処女作の「遠い山なみの光(1982年)」と「わたしを離さないで(2005年)」だけですね。
それから短編集として「夜想曲集:音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」というのも2009年に出ているようです。

カズオ・イシグロに初めてふれたのは、確か、中学校の国語の教科書でだったと思います。
教師が「日本ではあまり知られていないが、海外ではかなり有名」と言っていた記憶があります。
しかしどんな作品だったかはとんと記憶がなく、それから全然触れる機会のないまま長い月日が経ってしまいました。
しかし近所の図書館にまとまって揃っていることに気が付いたので、ひとつ読んでみようかと手に取ったのが、「わたしたちが孤児だったころ」でした。

いちおう探偵物っぽい体裁ですが、内容は純文学系です。
上海での幼少時代の思い出や、養女との関係、つれない女性とのロマンスなどの描写が交互に表れ、次第に切迫した空気になっていくのがスリリングです。
特に最後のほうで、理路整然、流暢に感じていた主人公の語りが矛盾だらけの自己欺瞞に満ちたものだった事に気がついた時には、まるで叙述トリックに嵌ったかのように言葉を失いました。
しかしながら、この「信頼できない語り手」こそ、カズオ・イシグロのお家芸なのです。

二作目に選んだ「日の名残り」は代表作とされていて、ブッカー賞を取り、映画化もされました。
もちろん訳文しか読めませんが、この文章の滑らかさといったら何でしょう…。
そしてイギリスの貴族社会や、執事の仕事に関する実に細やかな描写。
これを日系人が書いたと知った時の世間の驚きはどれほどだったでしょうか?
「ブッカー賞とれたのはアングロサクソン系じゃなかったからだね」と言う本人の弁もむべなるかなです。
やはりこの作品に関してはそちらの驚きの方が大きく、主人公の欺瞞もかつての主人を擁護するもののようにも見え、むしろ天晴な忠義心のように感じました。
まぁ恋愛については唐変木すぎたのかも知れませんが…。

時間を逆に遡っているようですが、三作目に読んだのは「浮世の画家」
これは終戦直後の日本が舞台で、日本人にとってはぐっと親しみやすい。
しかし、ちょっと変なところもあり、やはりこの人中身は英国人なんだなと感じさせられます。
この本は地味だと思いますが、それだけにカズオ・イシグロが追い求めているテーマがはっきりと見えるように思います。
多分この主人公を好きだと感じる人はいないでしょう。
彼の語りは虚栄心、頑固さ、過去の栄光への執着、言い訳で満ちているからです。
なので如何に自分の都合の悪い点に触れていないかがよく判ります。
それこそ、無意識の内に記憶を取捨選択し、自分の都合の良いように再構築すること=「自己欺瞞」なのです。

思えば、この順番で読んだことが四作目の「充たされざる者」への良い助走になりました。
何と言っても、ふつうの文庫本のゆうに三倍はあるかと思われる厚さに挑戦するためには、ある程度の備えが必要なはずです。
文庫本で900ページもあり、通勤時に読むのが苦痛な程でした。ではなぜ分冊しなかったのか?
この長大な作品は、それでいて実はたった三日間の話で、しかも日ごとに章に分かれています。
分冊するのにおあつらえ向きじゃないか、とも思えますが、読めばきっとここで切れない事に気が付くと思います。
切るにはあまりにもフワフワしてるからです。
そんな事はしたことがないですが、上・中・下と三分冊されている作品(「カラマーゾフの兄弟」とか「アンナ・カレーニナ」とか)の「中」だけ読んだとしても、それなりの歯応えを覚えるでしょうが、「充たされざる者」の二日目だけを読んでも全く雲を掴むような感触で意味をなさないと思います。

非常にシュールな作風で、世界的なピアニストの主人公がとある街の音楽会で演奏をするという筋なのですが、時間、場所ともに曖昧。
何か重大な事らしいとのほのめかしはあるものの、演奏会の目的も謎です。
登場人物たちは、小野(「浮世の画家」の語り手)に輪をかけたような、慇懃ながら自分の事しか考えてない嫌な連中ばかりです。
これまで自己欺瞞は主人公の中だけの話でしたが、それが地雷のように街中にバラ撒かれたかのようで、ライダー(主人公)は彼らとの関係に絡め取られて四苦八苦します。
そのあまりのしつこさ、嫌らしさに、逆にコントを見ているようで面白くなり、ついつい笑ってしまいました。
と言うか、そもそも本作はそういう「電波小説」として読むのが正しいのかも。
家族を(できれば世界も)もう一度、幸せだった頃の状態に再構築しようと奮闘するところに電波チックな言動が表出するのです。
そしてその試みが失敗に終わるから「充たされざる者」なのかな、と酔った頭で愚考します。

紛うことなき問題作だと思いますが、私的にはその突き抜けたウザったさには、むしろファンキーな粘りを感じ、感銘を受けました。
カズオ・イシグロの作家としてのスケールの大きさを示す作品でもあったかと思います。
こういう系統の本、他にもあったら読んでみたいですね。
多分、「わたしを離さないで」は違いますよね。

ハイランドパーク12年

やまや銀座店でハイランドパーク12年を購入。
ミニチュアボトルのコブ付き。
税込み¥3,300也
銀座だからといって特別高いということはありませんでした。

ボウモア、タリスカーに続くシングルモルト第三弾です。
う〜ん、この価格帯で買えるのもそんなに無くなってきました。
上は天井知らずだし。
最近円安が進んでいますが、洋酒党にとっては嬉しくない。
円高よもう一度。

色は紅茶っぽいゴールドですね。
ちなみにこのグラスはテイスティング用とかではなく、ダイソーで100円で買ったワイングラスです。

香りはスコッチの平均からするとある方なのでしょうが、ラフロイグとかボウモアとかアイラモルト系の強いのに比べると大人しいです。
わたしにはチョコレートの香りに感じました。
ストレートで口に含むと、シェリー樽、ハチミツの甘さがあり、ボウモアに似てると思いましたが、こちらも控えめな印象です。
パンのような香りもかすかに感じました。
とにかく滑らかで、角の無い味です。
後味もサッパリ。

正露丸系のボウモア、舌がピリピリするタリスカーと、個性的なのを飲んできたので、ハイランドパークのやや優等生的なまとまりは詰まらなく感じなくもない…。
しかしボトル一本飲み切ってみないことには判りません。
秋の夜長にがっぷり取り組んでみます。(肝臓が悲鳴をあげない程度に)

ブックセンターいとう 聖蹟桜ヶ丘店閉店

閉店したのが今年の二月だそうなので、だいぶ亀なのですが…。

こちらも前に記事にしたジェーソン昭島店同様、かつてのサイクリングコースでした。
お値段はチット高めながら、ブックオフよりも品揃えが充実していて、ワクワクさせてくれるお店でした。

去年の7月に、たまたま近くに行った折に立ち寄ったのが最後となりました。
残念ですが、いい思い出を残してくれたことに感謝したいです。

ランチョンミート

なんだか久し振りに絵筆を取ったナァ…。

この頃よく「スパム」系の形成肉を口にしていますが、一番のお気に入りはこの「チューリップ」
味うんぬんではなく、「キー」で側面を帯状に巻き取るギミックが心をつかんで離さない。

タリスカー

前回にひき続いて、お酒のエントリー。

お盆休みなので、ついつい飲んでしまいます。
で、前回買おうか悩んでたタリスカーをついつい買ってしまいました。

■香り
あまりない。
ふつうのスコッチ程度のピート香。
ちょっと物足りない。

■味
すごく辛い。
アルコールとは違った辛さ(「スパイシー」と評される)
さっぱりした後味。
チーズをおつまみにしたい感じ。

何というか、太い筆で一気に書いた書画というか。
潔さ、男性的、そんなイメージですね。

しかしわたしはボウモアのほうが好きだなぁ。
いや、飲むたびに、これこそ最高のウィスキーではないかと思うようになってきました。
派手すぎず、アッサリしすぎず、中庸の美というか。
何度でも杯を重ねたくなる魅力があります。
今日も適当なところで止めなければ…。

あ、かなり酔って書いています。

ボウモア

アルコールに対する嗜好も年齢とともに変化していくもののようです。

大学生くらいのころは、やはりお金がないので、一瓶千円くらいの安バーボンをよく飲んでいました。
バーボンには男らしいイメージがあるので、割り材など不要とばかりに、そのままか、ロックかせいぜい水割りで飲んでいました。
(それが果てしない胃痛と頭痛の原因となっていたのですが、当時は向こう見ずだった…)

就職して小金が出来ると、スコッチなどにも手を出し始め、だいぶ前ですがラフロイグを買ったことなども日記に書いたような気がします。

で、これが最近になるとほとんどその道の追求は止めてしまい、別の道の追求、経済性の追求と相成ります。
そう最近はもっぱら焼酎甲類で凌いでおります。
もはやアルコールを通じた知識、味覚、感性の研鑽は諦めてしまい、「酒が飲みテェ!」という身体のニーズに最も安価に応えてくれる道を選ぶようになったのです。

そして、ハイボールだの、ホッピーだの、グレープフルーツだの、ウーロン茶など色々な割り材で飲むようになりました。
昔はジュースみたいだと軽蔑していたのですが、青かったです。
そもそも日本人の胃腸は、40度もある蒸留酒をそのまま受け入れるようには出来てまへん。
身体に過度の負担を掛けずに長く楽しく飲む知恵だと思います。

しかし、たまにはボトルの中の冒険をしてみたくなります。
お金が許す範囲でね。

だいぶ前置きが長くなりましたが、買ってきました「ボウモア12年」
新宿の「やまや」で。お値段は税込みで¥3,066
う〜ん、高いナァ…。
しかし一緒の棚にあったラフロイグは四千円以上もしていた。
前はもうちょっと安かった気がするのですが、円安と増税の影響でしょうか?
それにしても、「クォーターカスク」だの「セレクトカスク」だの「スモールバッチ」だのよくわからないバリエーションが増えた気がします。
手を出すとキリが無さそうなので、自分は当分スタンダード品でいいです。
同じくらいの価格帯でタリスカーという有名なのも置いてあり、迷ったのですが、正月に飲んだ味が忘れられずこっちを購入しました。

箱には、「ピートの煙ったさにほのかなレモンとハチミツの香り」(意訳)と書いてあったのですが、わたしに感じられるのはせいぜい軽いヨード臭。
しかしラフロイグのような正露丸汁ではないです。
ほんのり甘みがあり飲みやすいです(あぁ、これがハチミツの香りか? しかしレモンが見つからないな…)

記憶のすきま

日は落ちたのに室内の温度計を見ると、37度という画期的な数値を指し示しています。
今日は夏祭りがあちこちで行われていて、窓を開けていると祭り囃子が聞こえてきましたがもう止みました。

さて今日、日経新聞の電子版で“「超記憶」を持つ人々”という記事を読んで心底羨ましく思った次第です。
要するに、何十年も前の事を昨日のことのように思い出せる人たちについての記事なのですが、何十年はおろか一週間くらい前のことすらも薄靄がかかったような有り様の身としては、羨ましい限りです。

わたしは、近頃とみに、人にとって真の財産、それは『記憶』ではないかと思うようになりました。
金は盗まれるかも知れないし、仕事は景気が悪くなれば失うかも知れません。
名声を得たとしても、時の移ろいとともに忘れ去られるかも…。
しかし記憶は誰にも奪われはしないーー。

と、そこまで考えてみましたが、いや、記憶も奪われますな。
それも他ならぬ自分自身によって。

個人的なふたつの傍証を。

この間、図書館でちくま日本文学シリーズの開高健を借りたのですが、すごく妙な感じがしたのです。
すごく既読感があるのですが、作品毎にそれがマチマチなのです。

  • 「流亡記」確実に読んだ記憶あり。しかし別の本で読んだのかも知れない。
  • 「二重壁」記憶なし。しかし、主人公が崎山からカメラを押し付けられるシーンにはすごく既読感を覚える。
  • 「声だけの人たち」記憶なし。
  • 「笑われた」読んだ覚えあり。
  • 「ベトナム戦記よりー”ベン・キャット砦”の苦悩」記憶なしーー、かと思ったが最終段は確かに読んだ記憶がある(それは感動的である)
  • 「戦場の博物誌」記憶なし。かと思ったが“ストッパー”については覚えていた。
  • 「まずミミズを釣ること」記憶なし。
  • 「一匹のサケ」これも記憶なしかと思ったが、「トトチャブ」のくだりでやはり読んだことがあることに気が付く。
  • 「河は呼んでいる」記憶なし。

全体的に見ると、やはり以前この本を手に取ったことは確実だと思うのですが、どうしてこうも乱杭歯のように記憶がマチマチなのかと疑いたくなります。
ブログを見返すと、08年に開高について書いているので、もしかかしたらその辺りで読んだのかも知れませんが、6年も前だから忘れて当然と受け止めるべきか、読みの浅さを反省すべきか迷うところです。

次。
今日デジカメのデータ整理をしていたのですが、何かおかしい。
そうGWに行った千葉の写真が一枚もない!
パソコン中を徹底的に検索したけれども見つからない!
そんなハズないと思うのだけれど、やっぱりパソコンにデータを移す前に消したとしか考えられませんでした。

一体なぜそんな真似をしたのか、当時の記憶が無く、杳として分かりません。
ちょっと大袈裟ですが、何か無意識の隙間からハイド氏が顔を覗かせたかのような、自分の正気を疑ってしまうような出来事に感じショックでした。

それで今日はデータ救出に貴重な時間を費やしてしまいましたよ。
話はやや横道に逸れますが、まずGoogleで検索して最初に出てきたデジカメのデータ救出ソフトを使ってみました。
とりあえず、無料の体験版でやってみたのですが、デジカメのメモリをスキャンすると、おぉ! 出るではないですか?!失ったはずの画像データが。
そこでパソコンに保存しようとすると、「ここから先は有料版のみの可能です」とのメッセージが。
何か、カリントウだと思って口にしたらイヌの雲古だったかのような、非常に冒涜的なものを感じ、そのソフトは打ち捨てました。

それで、徹頭徹尾無料のものをダウンロードして使ってみたのですが、それだと部分的に復元できることにはできるのですが、不十分で、さっきまでカリントウで見えていた全てのデータが救出できない。
で別の、救出するデータが1GBまでは無料ヨ!という、非常にケチ臭いソフトを使ってみたらどうにか全て救出できました。
データもギリギリ1GBに収まり、どんなもんだと胸を張りたいような、奇妙な充実感を覚えました。
(この記事をまかり間違って開発者の方がご覧にならないことを願います)

しかし、全てとは言っても本当に全てではなく、最初に撮った方の写真、つまり小湊鉄道に乗って養老渓谷で降りるところまでのは無くなっていました。
たぶん消した後に撮った写真に上書きされてしまったのだと思います。
それでも、養老渓谷の自然や翌日の外房の海岸の風景などは完全に復元されたので、浅い傷で済んだかなと思います。
GW後に出かける予定がほとんど無かったのが幸いしたよう。
幸か不幸か分かりませんが。

<付録>房総旅行記


つげ義春が泊まったという「川の家」
直前に読んだ「貧困旅行記」に影響されて、旅先に房総を選んだ


作品でも触れられているとおり、穏やかな川面


弘文洞跡
かつてはトンネルだったが、昭和54年の5月24日未明に崩落したそうだ


泊まった、いすみスカイホテル 潮騒館
館というより小屋のようだった
中は新しく、快適だった


宿の前には外房の海に面した潮溜まりが広がる


早朝の海


大原港に向かって海岸を歩く
ゴミひとつ落ちていない綺麗な海岸で感激した
波間にはサーファーの姿があちこちに見えた


大原港
ここもつげ義春ゆかりの地か


大原駅のそばの「エンゼル」で昼食を摂る


ボリューム感たっぷりのチキンカツ定食
スープはラーメンの汁だわこれ


帰り道に立ち寄った、船橋の紅梅湯
いい湯でした