今週は穏やかな陽気が続き、もう春かと思われたのですが、残念! 週末は雨でした。
外出したのは食料品の買出しくらいです。
フラストレーションが溜まったので、今日の夕食は外食にすることにしました。
場所は近所のインド料理店です。
以前いちど入ったことがあり、美味しかったので、今度また来ようと思っていたのです。
店員さんはリアルインド人です。
いたるところにインド風のポスター、木彫りの象の置物がレイアウトされ、エスニックな空間を演出しています。
BGMはおそらくご当地のポップスのようで、英語でも無いよくわからない言語で粘りの効いた歌唱を聴かせてくれます。
店には三人組の若者グループがいたのですが、わたしが席につくのとほぼ入れ替わりで出て行ってしまい、客はわたしだけになりました。
料理が来るのを待っている間、まるで異国の旅人のような気分でした。
注文したのは「インドターリーセット」というセットメニューで、サラダと小鉢に入った二種類のカレー、タンドリーチキン、ナン、ラッシーです。
「ラッシー」というのは要するに飲むヨーグルトです。プレーンとマンゴーラッシーのどちらかが選べたので、マンゴーラッシーのほうを選択しました。
カレーは辛さが五段階選べます。以前、普通の辛さ「ホット」を選んだところかなり辛かったので、今回は一段下げた「ミディアム」で行きました。まだ胃の調子も万全じゃないですしね。
十分弱くらいして、料理がやってきました。
さっそくカレーにスプーンを伸ばします。
二種類のカレーは、「野菜カレー」と「ほうれん草とチキンのカレー」でした。
ナンは焼きたてで、鯛焼きの皮のような甘い味がします。わたしはこれが好物です。
タンドリーチキンはいささか普通の味でしたが、ほかは折り紙付きの美味しさで、お腹いっぱいになりました。
さて、帰りは少し寄り道して、夜の散歩をしました。
人通りの無い商店街には街灯だけがやけに眩しく点っていました。雨に濡れて銅像も心なしか寂しそうに見えました。
「all」カテゴリーアーカイブ
深瀬昌久
二月のリカー
胃潰瘍はアルコールで消毒するに限ります。
もちろん冗談です。
二月の間に購入したアルコール類を紹介します。
まずバーボンがなくなったので、「ローワンズクリーク」を手に入れました。
お腹に巻かれたアミが、「あたしゃプレミアムバーボンだわよ」と主張しているようです。
こういうギミックは味とは関係ないと軽視する向きもあるでしょうが、わたしにはアルコールには欠くことの出来ない要素のように思われます。
バーボンに限らずですが、革袋に包んでみたり、陶器のボトルだったり、木箱の中に入れてみたりと、嗜好品に最大限の付加価値を持たすべくメーカーはあれこれ手を尽くします。
それがアルコール体験を、単に舌の上だけのもの以上にしているのです。
だれか高名なジャズの評論家が、「ジャズとは雰囲気一発の音楽」と言っていましたが、お酒にもそのまま当てはまりそうな言葉です。
とはいえマズければいかに取り繕ったところで意味がない。
では「ローワン」はどうかと言うと、甘い口当たりでクリーンな味です。そして後味はさっぱりしています。
よく言えば雑味がない、悪く言うと没個性というところですか。
決して悪くはないのですが、ふたたび手に取るかは微妙なところですね。
その点、クリークはクリークでも前回の「ノブクリーク」は、味は苦みがあってちょっと苦手でしたが、香りが豊かで個性がありました。
ソーダ割りにするとおそろしく美味かったです。こっちはまた飲んでみたいと思えるバーボンでした。
それから、ロシア産ウォッカの「ストリチナヤ」です。
久しぶりにブラッディマリーを作りたくなったので。
ブラッディマリーはウォッカをトマトジュースで割ったカクテルです。
わたしはそこにタバスコを振ったり、コショウをかけたりして、チリにして飲むのが好みです。
あまりたくさんは要らないので500mlの瓶にしました。
冷凍庫でキンキンに冷やしてストレートで飲んでもおいしいです。
最後に今日買った「スーズ」
ゲンチアナというリンドウ科の植物の根を浸漬して作られるリキュールです。
色は鮮やかな黄色で、爽やかな苦味があります。
と言うよりズバリ、ユンケル系の栄養ドリンクの味と言ってしまった方が分かりやすいと思います。
グラスに注いだ瞬間から思ったことなのですが、この色といい、匂いといい、そのものです。
効用にも健胃、消化促進が謳われています。
わたしはかなり気に入りました。
トニックウォーターで割って飲むみたいですが、そのまま飲んでもいけます。
同じハーブ系ならカンパリよりも好きですね。
胃潰瘍
春一番が吹き、春めいてまいりましたね。
しかしわたしの体調は下り坂で、今週はぴりっとしませんでした。
症状は腹痛。
みぞおちのあたりにゴロゴロとした痛みを感じ、吐き気を覚える時もありました。
特に空腹時がつらかったです。
金曜日、退社後に内科を訪れ、診てもらうと「胃潰瘍」とのことでした。
注射を打ってもらい、胃酸を抑える薬と胃の粘膜を保護する薬をもらって帰りました。
薬が効いたのか、今日はだいぶ楽になりました。ただまだ本調子には程遠いですが。
原因には思い当たることがあります。
小松和彦
民俗学者の小松和彦の著書を二冊ほど読みました。
「異人論」と「神隠しと日本人」です。
「異人論」のほうは、85年に出版されたもの。そのせいか、作者近影が若く、かなりイケメンです。
内容は論文集で、「異人殺し」というものが中心のテーマとなっています。
論文集なので、固い内容もあり、よく分からない部分は一部飛ばし読みしました。
「異人殺し」の典型的な例とはこういうものです。
『ある家に山伏が訪ねてきて一晩の宿を乞うた。主は山伏を泊めてあげることにした。
ところが山伏が非常な大金を持っていることに気がつき、欲に目がくらんで、寝込みを襲って殺してしまった。
そのお金を元にして彼の家はたいへん栄えるようになった。
しかしなかなか跡継ぎが得られなかった。これは山伏の呪いであると考え、祠を建てて鎮撫した。
お陰で跡取りが得られた。彼の家は長者の家系となった。
しかし後代の子孫が祭事を怠るようになり、祠を毀ったので、さまざまな災厄が振りかかるようになった。
そのためについにその家は途絶えてしまった』
このような例をいくつも挙げて、さまざまな角度から検証を加えていくというスタイルです。
興味深いのは、異人殺しが実際には行われていなかったにも関わらず、このような伝承がまことしやかに伝えられている例があることです。
小松先生の導き出した結論はなかなか刺激的です。
こういう伝承が村の中のジェラシーを吸収する装置になっていたのだというのです。
つまり、隣家の繁栄はとても妬ましい。ウチと何が違うのか? そうだその富は大変な不正のもとに生み出されたに違いない。ウチは貧しいが決してそんな真似はしない———。
あるいは名家が急に没落してしまった場合、(実際にはありもしない)異人殺し譚を設定することで受け入れやすくすることができます。
供養を充分に行わなかったために祟りを受けたのだと。
逆に考えると、フィクションを設定しなければならないほど、昔の人々にとっては、特に理由もなく富んだり、あるいは貧しくなることが受け入れがたい事実であったということのようです。
現在の感覚だと、そっちのほうがよっぽど奇妙に映りますが。
「神隠しと日本人」のほうは、年代も下りもっとくだけているのでずっと読みやすいです。
こちらも「神隠し」の実態と、その機能について詳細な分析が行われています。
それによって「神隠し」が“事実”をくるむオブラートととして機能していたことが明らかにされます。
つまり、実際には誘拐されたり、殺されてしまったりしたであろう人たちにたいして「神隠しにあった」と言うことで、微かな生の期待を繋ぎ、残された人たちへのダメージを軽くすることができた。
あるいは、個人的な理由で出奔してしまった人たちに対しても、「神隠しにあった」と言えば不問になったということです。
神隠しとはまことに曖昧なものですが、このように包むような優しさがあったのです。
すべてを社会の内部の因果関係の中で理解しようとする現代では、起こり得ないことがわかります。
ところで、浦島太郎までを神隠しの例に引いているのを見て思ったのですが、現代の浦島太郎と言える「ひきこもり」も、当時であれば「神隠し」と言われたでしょうか?
そうであれば、現代の異界はまさに家庭のなかにあるといえます。
浦島太郎が遊んだ竜宮は、今ではインターネットやオンラインゲームがそうなのかも知れませんね。