(ああ、表紙に思いっきり図書館のシールが…)
深沢七郎の「楢山節考」を読みました。
姥捨て山の話なのですが、その他にも嬰児殺しやら、村八分やら暗い因習濡れの寒村の生活が描写されます。
田舎とはここまでハードなものなのか……。
しかし、内容のハードさに比べて作品の雰囲気じたいはそれほど重く感じませんでした。
ひとつはもうすぐ姥捨て山(楢山)に連れていかれる、おりんが嫌がってはいないからでしょう。むしろ積極的に楢山参りの準備をしています。
山に捨てられて、孤独な死を迎えることが「楢山参り」というオブラートに包まれて、なんだかとても良いことのように語られているのです。
とてもちぐはぐで、目眩を起こさせるような話ではないでしょうか。
それから村民たちの訛り言葉と、そして文章のところどころに挿入される「楢山節」の素朴な味わいが印象を幾分やわらげている、ということもあります。
作品の大きな魅力であり、村民への共感を感じさせます。
なので作品の主題は前近代的な寒村の風習を告発することではないです。
では深沢は何を言いたかったのか? なんでこんな話を書いたのか?
正直よくわかりません。
この本には、「楢山節考」の他に三編の作品が収められているのですが、「白鳥の死」という作品の中で、おりんにはイエスと釈迦が入っていると書いてある部分があります。
ということは、棄老の習わしは、必ずしもイヤイヤではなく、自己犠牲の精神があったのだと言いたかったのかも知れません。
わたしにはこの作品は、棄老が棄てる者と棄てられる者のいずれにとっても幸せであったかも知れない、という可能性を文章のうえで実験した、ように思えます。