今日は「源氏物語千年紀記念式典」なるものが京都で挙行され、十一月一日を「古典の日」とすることが宣言されたそうです。
前々から投稿したいことがあって、それがちょうど古典の話でした。
良い機会なので書き留めておこうと思います。
大学時代、わたしは理系だったので、古典はもちろん文学自体にも疎かったのですが、教養課程はいくつか文学の単位を取ることが必須でした。
気の進まないまま座ったのが、「雨月物語」の講義の席でした。しかし、そこで雷に打たれたような衝撃を受けたのでした。
「蛇性の婬」の回でした。正直に言うと、最初はいかにもいやらしそうなタイトルに興味を惹かれたのです。
ところが読み進めて行くうちに止まらなくなりました。息をつかせぬ凄い展開。そして濃密な情感です。それまでにはこんなドラマチックな古典は読んだことがなかった。
高校時代には「祇園精舎の…」ではじまる平家物語の冒頭や、「春はあけぼの…」の枕草子を諳んじてきました。
そこに見出されるのは美しくはありますが、今の我々とは全く異なる価値観、感性であって、共感を得るのは難しいものでした。
しかし、「蛇性の婬」には迫真の人間造形と、生々しい感情が通っているとはっきり感じました。
いったい何がそう感じさせるのだろうと、数年来思い悩んできたのですが、最近自分なりに答が出ました。
それは主人公の豊雄が「ニート」だったからです。更に風流ばかりを好んで、本の虫だったとも書いていますから、現代に生まれたならオタクになったこと間違いなしです。感情移入せずにはいられません。
そしてヒロインの真女児ですが、彼女は「ストーカー」です。
現代版に翻案すると、ニートを若き未亡人がストーキングするという、電車男もびっくりの大変倒錯した話になるわけです。古典という表の顔に隠れた、この過激さに当時のわたしはやられたのだと思います。
さて、「蛇性の婬」には元ネタがあります。ひとつは中国の「白蛇伝」。もうひとつは安珍清姫の「道成寺」です。
引用した絵は鏑木清方の「道成寺」です。
この話もものすごいです。名家の娘、清姫は、一晩宿を貸した美形の僧侶、安珍に一目惚れをしてしまい、ななななんと逆夜這いを仕掛けるのです。
安珍は清姫の一途な思いに圧倒されますが、当然、修行の身ですから彼女の思いは受け入れられません。そこで、「熊野参りが済んだらまた会いに来るよ」などとうまい事言って、まんまと逃げ出します。
安珍に騙されたことを知った清姫は怒り狂い、大蛇に姿を変え彼を追います。
とうとう道成寺にまで追い詰められた安珍は、鐘の下に匿われますが、清姫の吐く炎によってアワレ焼き殺されてしまいましたというお話です。
真女児と清姫は共に、濃すぎる愛情表現、ストーカー行為、そして蛇身という点で一致しています。
しかし、真女児が元々蛇だったのに対して、清姫は怒りの余り変化したという点が違っていて、興味深いです。
清姫伝説のバリエーションの中には蛇身にならずに、入水して果てるという話もあるそうです。(この場合安珍は死なない)
そうすると、清姫の蛇の姿というのは、愛情を裏切られたことに対する怒りを喩えたものであると考えることもできそうです。
真女児にしても、未亡人が若い男に懸想して困ったとかいう話が下敷きとしてあったのかも知れません。
二つの物語は、恋に盲目になってしまう女性に対しては、滅ぼされかねないので男は注意しなければならないという戒めであります。
当時はそんな女性を、「蛇に取り憑かれている」などと揶揄していたのではないでしょうか。