あまりに難解(というか使われている用語の意味が分からない…)なので、読み終わるのにかなりの時間がかかりました。
しかしどうにか除夜の鐘を聞く前に読了。
と言ってもこれを読了と言ってよいのか……?
とにかく目は通した、というのが正直なところです。
やはり最後まで読んでも「こういう民間伝承があるので、パースペクティヴ主義を提唱するに至った」みたいな具体的は話は無く、概念をいじくり回すような「形而上学」的な議論に終始しました。
その議論があまりにワケワカメなので、並行して文化人類学やポスト構造主義についての本やサイトを副読書として参照しました。
そちらの方に今まで知らなかった新鮮なアイディアがあり、この本から自体というのではないですが、知的好奇心を得るきっかけとしては良かったのかな?と思います。
帯に「レヴィ=ストロース×ドゥルーズ+ガタリ×ヴィヴェイロス・デ・カストロ」とあるので、まずはレヴィストロースから攻めました。
レヴィストロースは私でも聞いたことがある、高名な文化人類学者で、構造主義を生み出して思想界に絶大な影響を与えたスゴイ人ですね。
アマゾン原住民の親族研究で、近親相姦を回避する結婚ルールに数学的パターンが存在することを発見しました。
原住民のなかに数学者がいるはずもなく――、世の中には目に見えない構造があり、人々は数学的根拠を意識することなくそれを実践しているということを明らかにしたのです。
また「野生の思考」あるいは「ブリコラージュ」ということも言い、アマゾンの人たちが身近な事物の関係性を比喩として用いて、上記のような見えない構造の実践を行っていることを示しました。
つまりおとぎ話のような神話を信じて、乱脈に生きているとタカを括っていたアマゾン原住民が、実は精緻な数学的構造を持った行動様式を持っていて、彼らなりの思考様式でそれを誤りなく実践していることが分かったのです。
これはそれまでの西洋中心の思想界にガツンとインパクトを与え、それ以降の20世紀の思想の潮流は多文化主義&構造主義(事物の裏にある見えない構造を見つけること)になっていきました。
私が思うに、ヴィヴェイロス・デ・カストロは野生の思考をインディオの狩猟に当てはめて、彼らの身近なシンボル(バク、ペッカリー、ジャガー、とうもろこしなど)を用いた比喩による言説と実践を研究して、背後の構造を明らかにしようとしている。
その構造がパースペクティヴ主義なのか、パースペクティヴ主義はその構造を解き明かすための道具なのか、私の薄い理解では判然としませんでしたが……。
次にジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ。ポスト構造主義を代表する学者ですが、とにかく何を読んでも良く分からなかった……。
何となくの理解ですが、哲学する上での土台を整理する哲学……、みたいな。
古今様々な哲学者がいましたが、彼らはてんでバラバラの前提条件に立って議論しているので、同一の物差しを持って良し悪しを議論することはできない。
曰く、「内在平面」「概念的人物」「哲学地理」の三つが重要である。
- 「内在平面」――は、何を暗黙の了解としているかということ
- 「概念的人物」――は、どういう立場に立って議論しているのかということ
- 「哲学地理」――は、その哲学が生まれた歴史的地理的背景
これらの違いを意識しないとまともな議論にはならないよ、ということを主張していたようです。
たぶんヴィヴェイロス・デ・カストロはこの本の中で、自分のパースペクティヴ主義は(ポスト構造主義と呼ぶに相応に――?)上記の要請を満たしているよ、ということを言いたかったのでしょう。
それが「生成」だの「リゾーム」だの「分子的」だのと言ったドゥルーズ語で語られるので異様に難解な議論の様相を呈しているのではないかと思います。
(自信無し……)
全然的外れかも知れませんが、ドゥルーズとガタリのアプローチを見て、大学時代に物理のコースで学んだ解析力学を思い出してしまいました。
とても形式的で難解だったので正しく理解してないと思いますが、確か「色んな座標系で表現されうる物理の方程式を、座標系の取り方によらない一般的な形に再形式化する」みたいな話でした。
何か空を掴むような具体性のない議論で苦手でしたねー。
しかしそれが便利で美しいと感じる学者もいっぱいいる(だからこそ大学の授業になってるのですが)ので、ドゥルーズとガタリの理論を通して文化人類学を再形式化したいというのも、同じような欲求が働いているのでは?とボンヤリ思います。
レヴィストロース、ドゥルーズ&ガタリ、ヴィヴェイロス・デ・カストロと見てきて、数学コンプレックスというのも透けて見えるように思います。
その辺り「ソーカル事件」で思いっきりバカにされてしまいましたが、ポストモダン哲学に限らず、人文科学は自然科学に対して引け目を感じる部分があったりするのかな……?と。
数学の証明のように厳密な論理展開が出来れば、誰にとっても納得の理論を構築することができ、「文句があるなら言ってみやがれ」と胸を張ることが出来ますが、文化人類学のごとき曖昧なものを対象とする学問ではなかなか難しい。
きっとどこかで「それってあなたの感想ですよね」とブッスリ刺されてしまう不安を抱えているんでしょう。
それを防ぐための理論武装が上のようなドゥルーズとガタリの理論なんじゃないでしょうか。
ただ、論理的厳密さはないけど学者個人のキャラクターに基づく洞察から生み出された理論というのも、外野から見る分には面白いですけどね。
(フロイトの理論とかそうではないですか?)