最近のフィルム

約三年振りにフィルムを現像しました。
もう現像のやり方を半ば忘れてしまい、ネットで確認しようとしたところ、前まで参考にしていたサイトがもう無い……。
どうにか当時の記憶を掘り起こしつつ現像しました。
ドキドキでしたが、絵が浮かび上がって良かった――。

トライX400が三千円もするような昨今では、もうフィルムで撮ろうという人は現れないのでしょうね。
昔はヨドバシでも500円くらいで売っていたものですがー。

7年くらい前に買い溜めしている分を細々と使っていましたが、これで最後の一つに……。
使い切ったら私もフィルムは卒業かな?と思います。(しかしこのペースだとそれは数年後になりそうですが)

前は出かける時にはフィルムカメラを同伴していたものですが、すっかり触る頻度が下がりました。
腕もだいぶ落ちたと思います。
ピントが合っていない写真が多く、残り少ないフォルムだというのに情けないです。

しかしその一因はスマホのカメラの長足の進歩にあると言えるでしょう。
AIが自動で判断して、いい感じのカラーバランスで撮ってくれます。
一眼レフよろしく背景をボカすなど、心憎い芸当すらこなすようになっています。

専用機でないので、シャッターを押すまでに時間がかかるなどイラッとさせられる瞬間もありますが、実用上もうこれで十分じゃない?と思える水準に到達しています。
ちょっと味気ないですが、それに文句を言うのも変ですよね。

<渋谷>

<反町公園>

<滝ノ川>

<本覚寺から見た横浜ポートサイドのタワーマンション>

<東横フラワー緑道>

<鶴屋町>

写真の神様にもやはり前髪しかない

最近とんとん拍子に欲しかった写真集が手に入ったので、これまで眠っていた収集欲が頭をもたげて来ています。

筆頭は、植物写真家として高名な山村雅昭の「花狩」(88年)
出来れば「植物に」(76年)も欲しいですが、市場から姿を消しているとおぼしい。
市場価格も一万五千円くらいとこなれていて、今すぐにでもGETしたいところですが、今月は2冊も買ってしまったのでちょっと自重中。

ところで山村雅昭氏も「花狩」を絶筆に出版前に自殺されています――。
作家も芥川龍之介、太宰治、川端康成と枚挙にいとまがないですが、写真家の自殺率というのも実は高いのか……。

私の写真集収集の趣味は後悔の歴史でもあります。
当時の自分に言ってやりたい。「欲しいと思ったら即買え」

動物写真家の宮崎学さんの「死 Death in Nature」という写真集があります。
死んだ鹿やタヌキが自然に還るまでを克明に記録したものです。
現代の九相図とでも言うべき衝撃的な内容ですが、それでいて不思議と全くグロくなく、自然の調和の美しさに感嘆します。

10年以上前だと思いますが、それをたまたま書店で手に取ってたいへん感銘を受けました。
受けた――、ハズなのですがしばらく忘れており、ふと今になって思い出し調べたら、既に絶版で古書市場ではたいへん高価になっていました。

もう一つ!
水俣を撮ったことで知られている、世界的に著名な写真家ユージン・スミスの助手も務めた森永純の「河‐累影」(78年)
これも10年くらい前になるでしょうか、友達と中野ブロードウェイに遊びに行った際にまんだらけのショーウィンドウに展示されているのを見たのです。
確か¥22,000でした。

ひとりで来ていたら確実に手に取ったと思いますが、大型本なので、友と連れ立って歩くのに手がふさがって不便だと思いスルーしてしまいました。
しかしその後なぜか忘れ、今に至るまで中野ブロードウェイを再訪することもなく……。

大型書店の棚を覗けば数多くの写真集が並んでいます。
時の経過とともにその後プレミアムが付くのか、特に何も無く忘れ去られるのかは分かりませんが、定価はある意味バーゲンセールの値札のようなもの。
もしも少しでも心に残る本があれば、迷わずGETするのが良いでしょう。
たぶんそれは一期一会の出会いです。

清野賀子-至るところで 心を集めよ 立っていよ

ついこの前、清野賀子のTHE SIGN OF LIFEをレポしたところなのですが、ウォッチしていた二作目(そして絶筆の)「至るところで 心を集めよ 立っていよ」の最安値が2万台になったので光速でポチってしまいました。
一年以上ウォッチしていてずっと下がらなかったのに、手に入るときはこうもトントン拍子にいくものかと思います。

本のタイトルはパウル・ツェランという詩人の作品から採ったようです。
有名な詩なんですかね?
清野さんはタイトルを決める前に亡くなってしまったそうなので、編集者がなんかいい感じに選んだんでしょうね。

サイズなのですが、「THE SIGN OF LIFE」に比べてだいぶ小さいんですよね。
定価も「THE SIGN~」が7千円に対して、半額の¥3,500でした。

内容もかなり差があって、一作目が中判カメラで2000~01年の間に日本の各地で撮った写真を収めているのに対して、本作は年代は不明ですが東京を中心に小型カメラで撮った写真を収録しています。
前作がバシッと構図を決めた絵画的作品だったのに対して、ややラフなスナップ写真で構成されています。
もっとも顕著なのは前作に決してなかったもの――、人物写真が少ないながら(数えたところ5枚)収められています。








この本を作成中にお亡くなりになったので、何か死に関係するメッセージが含まれていないかと勘繰ってしまうのはヒトの性。
しかしそういう匂わせを見つけるのは難しいですね。

ただ読んでいて気が付くのは、芭蕉の木と学校のような建物、団地が何度も登場していることですね。
芭蕉は建物の中から撮られたものもあり、この学校のような建物にゆかりがあることを伺わせます。

全くの想像ですが、清野さん母校ではないでしょうか?
そして団地は彼女の住まい、もしくは近所の風景だったのでは?

写真を撮りながら自身の在りし日に思いをはせていたのではと、何の根拠も無いのですが思ったりします。
私の母校には芭蕉の木は生えていませんでしたが、それでもひどく郷愁を誘われる写真だからです。

Nikeエアズームペガサス39

前にこの記事で、Nikeエアズームペガサス37をレポしたのですが、その後続モデル、エアズームペガサス39をGETしました。
ゼビオのオンラインショップで¥7,762(税込み¥8,538)也。

と言っても前の37を履きつぶした訳ではない……。
エアズームペガサスは本当に歩きやすく良い靴です。毎日のように履いています。
しかしスニーカーはいずれはボロボロになり履けなくなる運命にあります。
エアズームペガサスは定番モデルなので市場から消えることは無いと思いますが、昨今インフレ傾向にあるので、その時異様な高値になってたらイヤだなと思い、ストックしておこうという魂胆です。

37⇒39で見た目はほとんど変わらないですね。
踵の形状がちょっと変わったくらいですか。
軽く履いてみましたが履き心地も変わらない感じだったので安心しました。

ストックする際に肝心なことがひとつ。それは湿気対策。
スニーカーのソールはポリウレタンでできていて、水分を含んだ状態で長期間放っておくと反応してボロボロに崩れてしまいます。
大事に保管していたスニーカーが、久し振りに取り出してみたらベロッとソールが剥がれてしまったなどという話はコレクターの間ではよく耳にします。
ポリウレタンであればいずれは劣化することは避けられませんが、湿気対策でそれを緩やかにすることができます。

100均で木製のシューキーパーを買ってきて中に入れます。
これで型崩れを防ぐとともに、木材が湿気をある程度吸収してくれます。
本当はシリカゲルがあれば一緒に入れたかったのですが、残念ながら見つけられず……。

そしてラップでグルグル巻きにするッッ!!
むかしアメ横のスニーカーショップで同じようにラップされて冷蔵庫に入れられているのを見て、「靴って生モノだったっけ……?」と思ったものですが、確かに靴は生モノだった……。
箱に入れて、押入れのなるべく高いところに仕舞いました。(湿気がかからないようにね)

いま履いているエアズームペガサス37が履けなくなるのはあと2、3年後くらいかなと思います。
これで新品同様のコンディションをキープしてくれればと、切に願います。

2022年の読書を振り返って(2)「食人の形而上学」

この記事の続き。元記事はこれ

あまりに難解(というか使われている用語の意味が分からない…)なので、読み終わるのにかなりの時間がかかりました。
しかしどうにか除夜の鐘を聞く前に読了。
と言ってもこれを読了と言ってよいのか……?
とにかく目は通した、というのが正直なところです。

やはり最後まで読んでも「こういう民間伝承があるので、パースペクティヴ主義を提唱するに至った」みたいな具体的は話は無く、概念をいじくり回すような「形而上学」的な議論に終始しました。
その議論があまりにワケワカメなので、並行して文化人類学やポスト構造主義についての本やサイトを副読書として参照しました。
そちらの方に今まで知らなかった新鮮なアイディアがあり、この本から自体というのではないですが、知的好奇心を得るきっかけとしては良かったのかな?と思います。

帯にレヴィ=ストロース×ドゥルーズ+ガタリ×ヴィヴェイロス・デ・カストロとあるので、まずはレヴィストロースから攻めました。

レヴィストロースは私でも聞いたことがある、高名な文化人類学者で、構造主義を生み出して思想界に絶大な影響を与えたスゴイ人ですね。
アマゾン原住民の親族研究で、近親相姦を回避する結婚ルールに数学的パターンが存在することを発見しました。
原住民のなかに数学者がいるはずもなく――、世の中には目に見えない構造があり、人々は数学的根拠を意識することなくそれを実践しているということを明らかにしたのです。
また「野生の思考」あるいは「ブリコラージュ」ということも言い、アマゾンの人たちが身近な事物の関係性を比喩として用いて、上記のような見えない構造の実践を行っていることを示しました。

つまりおとぎ話のような神話を信じて、乱脈に生きているとタカを括っていたアマゾン原住民が、実は精緻な数学的構造を持った行動様式を持っていて、彼らなりの思考様式でそれを誤りなく実践していることが分かったのです。
これはそれまでの西洋中心の思想界にガツンとインパクトを与え、それ以降の20世紀の思想の潮流は多文化主義&構造主義(事物の裏にある見えない構造を見つけること)になっていきました。

私が思うに、ヴィヴェイロス・デ・カストロは野生の思考をインディオの狩猟に当てはめて、彼らの身近なシンボル(バク、ペッカリー、ジャガー、とうもろこしなど)を用いた比喩による言説と実践を研究して、背後の構造を明らかにしようとしている。
その構造がパースペクティヴ主義なのか、パースペクティヴ主義はその構造を解き明かすための道具なのか、私の薄い理解では判然としませんでしたが……。

次にジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ。ポスト構造主義を代表する学者ですが、とにかく何を読んでも良く分からなかった……。
何となくの理解ですが、哲学する上での土台を整理する哲学……、みたいな。

古今様々な哲学者がいましたが、彼らはてんでバラバラの前提条件に立って議論しているので、同一の物差しを持って良し悪しを議論することはできない。
曰く、「内在平面」「概念的人物」「哲学地理」の三つが重要である。

  • 「内在平面」――は、何を暗黙の了解としているかということ
  • 「概念的人物」――は、どういう立場に立って議論しているのかということ
  • 「哲学地理」――は、その哲学が生まれた歴史的地理的背景

これらの違いを意識しないとまともな議論にはならないよ、ということを主張していたようです。

たぶんヴィヴェイロス・デ・カストロはこの本の中で、自分のパースペクティヴ主義は(ポスト構造主義と呼ぶに相応に――?)上記の要請を満たしているよ、ということを言いたかったのでしょう。
それが「生成」だの「リゾーム」だの「分子的」だのと言ったドゥルーズ語で語られるので異様に難解な議論の様相を呈しているのではないかと思います。
(自信無し……)

全然的外れかも知れませんが、ドゥルーズとガタリのアプローチを見て、大学時代に物理のコースで学んだ解析力学を思い出してしまいました。
とても形式的で難解だったので正しく理解してないと思いますが、確か「色んな座標系で表現されうる物理の方程式を、座標系の取り方によらない一般的な形に再形式化する」みたいな話でした。
何か空を掴むような具体性のない議論で苦手でしたねー。
しかしそれが便利で美しいと感じる学者もいっぱいいる(だからこそ大学の授業になってるのですが)ので、ドゥルーズとガタリの理論を通して文化人類学を再形式化したいというのも、同じような欲求が働いているのでは?とボンヤリ思います。

レヴィストロース、ドゥルーズ&ガタリ、ヴィヴェイロス・デ・カストロと見てきて、数学コンプレックスというのも透けて見えるように思います。
その辺り「ソーカル事件」で思いっきりバカにされてしまいましたが、ポストモダン哲学に限らず、人文科学は自然科学に対して引け目を感じる部分があったりするのかな……?と。

数学の証明のように厳密な論理展開が出来れば、誰にとっても納得の理論を構築することができ、「文句があるなら言ってみやがれ」と胸を張ることが出来ますが、文化人類学のごとき曖昧なものを対象とする学問ではなかなか難しい。
きっとどこかで「それってあなたの感想ですよね」とブッスリ刺されてしまう不安を抱えているんでしょう。
それを防ぐための理論武装が上のようなドゥルーズとガタリの理論なんじゃないでしょうか。

ただ、論理的厳密さはないけど学者個人のキャラクターに基づく洞察から生み出された理論というのも、外野から見る分には面白いですけどね。
(フロイトの理論とかそうではないですか?)

2022年の読書を振り返って(1)「煉獄のなかで」

この記事で紹介したソルジェニーツィン「煉獄のなかで」とエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ「食人の形而上学」を読了したので、感想を記しておきたいと思います。

どっちにしようか……。
まずは「煉獄のなかで」のほう。

ソルジェニーツィンの著作は自身の体験が下敷きになっているといいます。

  • 「イワン・デニーソヴィチの一日」はカザフスタンの特別収容所での肉体労働
  • 「ガン病棟」は流刑先のタシケントで受けたガン治療
  • 「煉獄のなかで」はシャラーシカ(※)と呼ばれる特別収容所での経験

※シャラーシカではデストピアよろしく、収監した科学者や技術者を極秘の研究に使役していました。
生きて出られるか分からない収容所のなかでは待遇が良いので、作中でルービンがダンテを引用して「(地獄の)第一圏」と呼んでおり、原題を直訳すると「第一圏」なのですが、日本人にはあまりに馴染みが無いので「煉獄」という表現を採用したそうです。

「ガン病棟」は私が今まで読んできた小説の中でナンバーワン(遠藤周作『沈黙』と悩むが)の作品です。
ほぼ同時期に執筆され、同じく文庫本2冊分の大著の「煉獄のなかで」は「ガン病棟」と並ぶ感動を期待したのですが……。

「ガン病棟」は基本的には主人公コストグロートフの闘病記録であり筋が分かりやすいです。
それに比べて「煉獄のなかで」は、まずだれを主人公と呼ぶべきか迷います。

たぶんネルジン。しかし、ルービンやソログジンも重要な役割を果たしているし、物語のきっかけとなったヴォロジンも影の主人公と言えなくもないです。
下は収容所の雑役夫、上は髭の親父(スターリン)まで多種多様なキャラが登場し、多声的重層的にストーリーが進行するので筋を追うのが大変でした。

そしてロシア人の名前の難しいことと言ったら……。
登場人物の多さに加えて、名前、父称、愛称が入り乱れて、「一体だれが言ったセリフなの?」と読み返して確認することしきりでした。
そのうち諦めて雰囲気で読み進めるようになったので、ストーリーをちゃんと理解してるのか不安ですが、ごくごく簡単に書くとこんなお話しでした。

 クリスマスイブの夜、外交官のヴォロジンは世話になった医学教授が当局にマークされていることを知り、彼の家に匿名で電話を掛ける。
 シャラーシカの囚人で軍隊上がりの数学者ネルジンは、言語学者のルービンと人の声をグラフィカルに分析する「声紋法」の研究をしている。
 彼は助手の(囚人ではない)女の子シーモチカとねんごろの関係になりつつあるが、実は結婚していて、長い間妻とは音信不通である。
 そんな中、収容所の上層部はスターリン肝煎りの「秘密電話装置」の進捗がはかばかしくなく、迫る期限に冷汗三斗の状態である。
 上層部は優秀なネルジンを秘密電話装置のチームに異動させようとするが、彼は持ち前の反骨心からそれを拒み、一般収容所への追放が決まってしまう。
 優秀なエンジニアのソログジンは秘密電話装置の決め手となる設計を完成させるが、設計書を奪われて用済みとされることを恐れて破棄する。
 逆に「設計図は頭の中にある」と大胆にも上層部と交渉して身分の保証を得る。
 さて、ルービンの元にヴォロジンの密告の通話の分析が持ち込まれ、ネルジンと協力して容疑者をヴォロジンを含む二人にまで絞り込む。
 学問的厳密さを求めて渋るルービンの想いも空しく、当局は乱暴にも二名とも逮捕してしまう。ルービンは罪の意識に苦しむ。
 ヴォロジンは逮捕され、天国から地獄に落ちるような転落を味わう。
 ネルジンの妻は大変な労苦の末にネルジンの収容所を突き止め、ついに二人の面会が実現する。
 彼は自分を忘れるように言うが、妻は操を誓う。
 そして彼はシーモチカにまだ妻を愛していると決別を告げ、シベリア彼方の一般収容所に去って行くのであった――。

それにしても「声紋法」の説明はとても詳しく、現在の音声符号化に通じる内容で、ソ連の特別収容所でこのような先進的な研究が行われていたということに驚きを覚えます。
あまりに子細なので、ソルジェニーツィン自身がその研究に従事させられていたことを伺わせます。

ソルジェニーツィンがこの作品を通して言いたかったことは、表面的には科学者や技術者が強制的に汚い研究に従事させられていることへの告発かと思います。
もう少し掘ると、色々な囚人がいるが、中には甘言には騙されない骨太の囚人がいて、国家の抑圧にすら負けず不利を承知で自分の信念を通そうとすること――、だと思います。
ですが、もっとも言いたかったのは、こんな収容所でも案外楽しくやっているぜというポジティブさではないかと思います。

収容所が舞台なので、いかにも陰鬱そうなのですが、ネルジンとシーモチカがいちゃついたり、ソログジンは女職員とW不倫したりなど艶っぽい部分もあります。
そう言えば「ガン病棟」でも、コストグロートフが看護婦とねんごろになったり、ガンの少年が明日乳がんの手術のため乳房を切らなくてはならない少女に、最後の思い出におっぱいを吸わせてもらう、などと油断していたら椅子から転げ落ちそうになるエピソードがあります。

そういう「地獄みたいな所でも、人生灰色一色じゃないよ」というメッセージが、仕事とか人間関係が上手くいかなくて苦しんでいる人に希望を与え、困難に立ち向かう勇気を鼓舞するところにソルジェニーツィン文学の素晴らしいところがあるのだと感じています。

ところで去年からのロシアのウクライナ侵攻により、ソルジェニーツィンの名がプーチン大統領のロシア大国主義の思想的背景として紹介されるのをしばしば耳にするようになりました。

う~ん、ごく皮相を捉えればそうなのかもですが、ソルジェニーツィンの本質ではないんでないの?と思います。

よく引用されるのが「甦れ、わがロシアよ」ですが、たまたま手に入れていたので該当箇所をお見せしたいと思います。


読めば明らかにロシアとウクライナの統合を志向していますな……。

「野生の原野」に上がっている、クリミア、ノヴォロシア、ドンバス。

クリミアは言わずもがなロシアの後ろ盾で分離独立しました。
ノヴォロシアはウクライナ侵攻の口実となった「オデッサ騒乱」の舞台です。
ドンバスは戦争の激戦地として頻繁にテレビ報道されています。
見事にウクライナのあやふやな輪郭を言い当てているではないですかー。三十年の時を経て不安は現実のものになっています。

しかししかし、力ずくで併合せよなどとは全く書いておらず、それどころか「実際に分離を望むなら、それを無理に抑えることは誰にもできない。」と留保しています。

思えばソルジェニーツィンの文学とは、力ずくの政策に対する異議申し立てそのものです。
まだ存命だったとしたら(百歳超えてますが…)、プーチンの尻馬に乗ってウクライナ併合に迎合するなんてことは有り得ないでしょう。
逆に地獄のような暮らしを強いられているウクライナの戦争被害者を励まし、抑圧者に対抗する勇気を鼓舞するのではないでしょうか。

(「煉獄のなかで」の記事が長くなってしまったので、「食人の形而上学」については別に分けて載せようと思います)

清野賀子-THE SIGN OF LIFE

写真家、清野賀子の写真集「THE SIGN OF LIFE」を入手しました。

以前、須田一政のTwitterアカウントでツイートされているのを見て興味を持ち、ネット上で見れる作品を見るにつけ、その静謐さに惹きつけらるようになりました。
17年に東京都写真美術館に見に行った「TOPコレクション 東京・TOKYO」にも彼女の作品は収録されていました。

しかし何の印象も無かった……。押しつけがましさというのが一切ない(言い換えれば「地味」?)作風ですね。

自殺だそう…。どういう経緯かは何の情報も見つからず分かりません。ただただ惜しいと思います

清野さんは09年に亡くなっていて、生前遺した写真集は2冊のみ。
一冊目はこの「THE SIGN OF LIFE」(02年)、二冊目は「至るところで 心を集めよ 立っていよ」(09年)

もともと定価7千円の「THE SIGN ~」ですが中古市場では結構な高額になっていて、Amazonなんかで見ると複数の出品者から4万円台を最安として15万円~150万(?!)など無茶苦茶な値付けがされていました。
たぶん150万は桁を見間違えてポチるのを期待しているんじゃないかと思います……。
4万円でも高価に過ぎるので一年以上様子見していたのですが、ある時2万円台で出品者が現れたので、光速でポチりました。

「本当に届くのか? 状態は綺麗なのか?」と届くまで不安でしたが、美品が届き大変満足しています。







人物を撮った写真は一枚も無し。
写真集の形も珍しい横長なのは全ての写真が横向きだからですね。
01~02年の間に日本各地を中判カメラで撮ったものが収められています。
中判だからか、どの写真も精緻で美しいですね。

どこにでもあるような、殺風景な眺めが大半を占めているのですが、それでいて印象深く、心が澄むような静謐な感情を覚えるのはなぜでしょう?
国旗のような画面の分割パターンが目に付きます。

その絵画的な構図の安定感がそうさせるのかな?とも思います。
画面に見られる静かな美しさは、清野さんが心の平安を希求していた表れなのかなと、事情もよく知らないのですが思い巡らしてみたりもします。

読んで、二冊目の「至るところで~」もぜひ手に入れたいと思えてきました。
しかし今の市場価格はちょっと手が出ないので、気長に機会を待とうと思います。

ノートパソコンのHDDをSSDに換装した話

いま使っているPCは、5年くらい前に購入したLenovo ideapad 520というノーパソです。
しばらく使ってるので、遅く感じられることが多くなってきました。
特に起動直後が重く、ブラウザやメーラーがなかなか立ち上がらずイライラさせられることが多いです。
タスクマネージャーを見てみると、アップデートやウイルスチェックでHDDの使用率が100%になっているのがその原因です。

それでも我慢してしばらく使っていたのですが、このあいだOSが立ち上がらなくなりました。
ついに壊れたかと思い焦りましたよ……。
インストールディスクから起動して、HDDをチェックすると幸い立ち上がったのですが、寿命が近いのではと思い、慌ててバックアップを取りました。
そしてHDDが壊れた場合に備えて、替えのディスクを調達することにしたのですが、かねてからの不満も同時に解決すべくSSDに替えることにしました。

SSDはもう10年以上も前に買ったことがあるのですが、1年くらい使ってある日突然読めなくなってしまい、それがトラウマとなって避けていました。
HDDは蛍光灯みたいに、完全に読めなくなる前に不安定な挙動を経てから壊れることが多いです。
その間にデータを退避すれば難を逃れられるケースもあるので、ストレージとしては分があるかなと思います。

しかしいまどういう訳かSSDの市場価格が結構下がってきているので、嫌な思いもしたけどだいぶ過去のことだしもう一度試してみようかという気になってきました。
そこで白羽の矢を立てたのが、クルーシャルのMX500(500GB、5年保証付き)
お値段は、参考価格¥10,340のところを何と52%OFFの¥5,000ポッキリ!
AmazonでGETしました。


HDDと比べるとすごく軽く、プラスチッキーな外観です。
実は前に使ってすぐ壊れたのもクルーシャルで、迷ったのですがレビュー評価も高いことと、あまりのディスカウント率に屈しました。
ちなみに当時の価格は64GBで八千円でした。
なので記憶容量に対して実に12.5分の1のプライスダウンですね!
信頼性もコスパと同じくらい向上していることを望みます。

交換作業はYouTubeに動画を上げてる人がいるので、参考にして作業します。

ノーパソをひっくり返してネジを外し、DVDドライブを抜いてから底面カバーを外します。

カバーはかなり固くはまっているので、外すのに苦労しました……。
DVDドライブ側にある爪を上手く浮かせるのがミソです。


HDDはスポンジの付いたマウンターでケースに取り付けられています。
ピンも柔らかいので、簡単に外せました。

無事のせかえ完了。
カバーが固かったこと以外は特に難しいところは無かったですね。

しかし難航したのはここからで、あらかじめ取っておいたバックアップをSSDに書き戻すことが出来ませんでした……。
どうやら元々のHDDの容量が1TBだったのに対して、載せ替えたSSDが半分の500GBしかなかったことがマズかったよう。
データは100GB弱しか入れていなかったので問題ないかと思ったのですが……。

細かい経緯は省きますが、元のHDDのパーティションをSSDの容量以下に変更してバックアップを取り直し、どうにかデータの移行に成功しました。
ディスクを載せ替える場合は、同じかそれ以上の容量のディスクを用意するのが無難ですね。

で、上記の作業の中で分かったのですが、HDDは物理的に故障していたのではなく論理障害により異常をきたしていたのでした。
その論理障害は作業の中で修正したので、まぁある意味杞憂だったのかと。

しかしSSD換装の効果は目覚ましく、悩まされていた起動時の処理の重さは払しょくされました。
まるで生まれ変わったかのように処理がサクサクになり大変満足しています。
あとは故障せず長持ちしてくれれば言うことなしですね。

最近買ったCD

早いものでもう三月ですな……。
早い、早すぎる。
季節もぐっと春めいてきて、そろそろ開花宣言が出るかも知れない感じです。

この頃は音楽はもっぱらアマゾンミュージックで聴いているのですが、久し振りにCDを買ったのでご紹介したいと思います。

ノラジョーンズの1STアルバム「Come Away with Me」(02年)と2NDの「Feels Like Home」(04年)です。
「Come Away with Me」の方は横浜のディスクユニオンで¥300くらいでGETしました。
ノラ、ごめん。
「Feels Like Home」の方はディスクユニオンにもブックオフにも無かったので、ちゃんと(?)Amazonで購入。¥980(税込み¥1,078)でした。

わたしなんかがとやかくと言うまでもなく、二枚とも歴史的名盤ですね。
リラックスした雰囲気の、シンプルで率直な歌が心地よいです。
特に気に入っているのは、二枚目の「Those Sweet Words」
アマゾンミュージックの「リフレッシュジャズ」のプレイリストに入っているのを聴いて虜になりました。

前々から名前は知ってたのですが、「ジャズボーカル」という手を出す気になれないジャンルでした。
当時の自分にはたぶん気に入らなかったし、よく理解できなかったでしょうね。
騒々しい音楽よりこういうシミジミした曲が聴きたくなるのは歳を取ったしるしかなとも思います。

今でも新譜を追い続けている唯一のアーティスト、スガシカオ。
とは言えマジメにリリース直後にGET!ではなく、中古レコードの棚を眺めて見つけたら手に取るくらいの温度感ですね……。
このアルバム「労働なんかしないで光合成だけで生きたい」(19年)もブックオフで何気に見てみたら、DVD付の初回限定盤に¥500の値札が付いていたので「これは?!」と手に入れました。
もう11枚目のアルバムになるのか……。
これだけ枚数を重ねると、既視感を覚える曲も多いですね。
しかし何度も噛むと味が出てくるスルメのように、何度も聴いていると自分の今の生活に沁み込んでくるような感覚をおぼえます。

この印象的なアルバムタイトルはアマゾンミュージックみたいな定額音楽サービスで、ふと画面に登場したら興味を持って聴いてもらえるんじゃないかと思って付けたのだそう。ライトノベル的手法ですな……。

私の一番のお気に入りの曲は「おれだってギター1本抱えて田舎から上京したかった」
もう聴く前にタイトルを見ただけでニヤけてしまった。
そして期待を裏切らないルサンチマンに満ちた歌詞に大満足しました。
私がスガシカオを聴き始めたのは大学生の頃なので、彼の歌を聞くと当時の感覚がうずくようです。
そこにド直球ストレートで投げ込んでくる曲。

DVDはライブ映像と屋形船での座談会のよう。
ちらっと見ただけですが、時間があれば観る、かなぁ。