テレワークが定着してしまい、通勤が無くなったので、「電車の中で本を読む」という習慣が無くなってしまいました。
コロナ前に大著「アンナ・カレーニナ」を読むぞと意気込んでいたのですが、中巻の途中で止まってしまってます。
もうどんな話だったか忘れつつあります……。
読まないのに本欲しい欲は健在で、積読を増やしていってしまってます。
これは神保町まで足を運んでも見つけられず、結局ネットで注文しました。
上等の酒の開栓を惜しむように最初の頁を繰ったのですが、群像劇というのか「ガン病棟Part2」を期待して読んだら、筋が捉えがたく、有象無象の登場人物の織り成す会話に辟易してページを捲る手が進まなくなりました。
たぶんもう少し読み進めれば面白くなってくるんじゃないかと思いますがー。
あとは珍しく小説ではなく人文科学系の本で「エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ」という、舌を噛みそうな名前のブラジルの文化人類学者の2冊。
「インディオの気まぐれな魂 (叢書 人類学の転回)」「食人の形而上学: ポスト構造主義的人類学への道」
この本を手にしたのはたまたま付けていた放送大学のチャンネル(全く見るつもりは無かった)で、文化人類学の講義をやっており「パースペクティヴ主義」について耳にしたことによります。
パースペクティヴ主義とは「食人の形而上学」の言葉を借りればこういうこと―――。
人間、それも規範的な状態にある人間は、人間を人間として理解し、動物を動物として理解する。精霊に関していえば、こうした通常は眼に見えない存在者をみることは、その「状態」が規範的ではない——病気である、もしくはトランス状態か他の副次的な状態である——ことを確かに意味するのである。獲物は、人間を精霊や捕食者としてみるのだが、捕食動物と精霊の側からみれば、人間は獲物である。ペルーのアマゾンに住むマチゲンガについて、「人間存在は、自らをそのようなものとしてみる。しかしながら、月、蛇、ジャガー、そして天然痘の病原体は、人間をバクやペッカリーとみなして殺すのだ」と、ベアーは指摘している。
われわれが非人間とみなすもの、実はそれ自身(そのそれぞれの同種)こそが、動物や精霊が人間とみなしているものなのである。それらは、家や村にいるときには、人間に似た存在として感じ取られる(あるいは、生成する)。そして、その振る舞いや特徴は、文化的な外観によって理解される。そしてそれらは、自らの食べ物を、人間の食べ物のように理解するのである(ジャガーは、血をトウモロコシのビールとみなすし、ハゲワシは、腐った肉に沸く虫のことを焼き魚とみなす、など)。
それらは、身体的な特性(毛並み、羽、爪、くちばし、など)を、装身具や、文化的な道具とみなす。それらの社会システムは、人間的は制度にのっとたやり方で組織される(首長、シャーマン、半族、儀礼…)。
意味わかりますか……??
科学的でもなく、誰の視点なのかもよく分かりませんが、「人間と動物の関係は絶対的なものではなく、転倒しうる相対的なものだとアマゾン原住民は考えている」と理解しています。
一種のアニミズムだと思いますが、黒澤明が映画化した「デルス・ウザーラ」のなかで、デルスが動物のみならず水や焚火さえも人とみなしていたことを思い出すと、シベリアとアマゾンという地球の裏表ほど離れた場所で、通底する同じ思想を持っていることに不思議な驚きを覚えました。
また胎内記憶や中間生記憶といった、赤ちゃんが生まれてくる前に持っている記憶について興味があるのですが、パースペクティヴ主義と強く共鳴するものがあるように感じます。
胎内記憶のエピソードで良く登場するのは、お風呂、プール。これは言うまでも無く羊水のことを表しています。
滑り台を下って来たとかドアを開けて外に出てきた、というのも産道のことを言っているのだと思います。
お腹の中でお菓子を食べた、積み木で遊んだ、色々な紐があったというのも胎盤やへその緒のことでしょう。
こうした言い換えはパースペクティヴ主義の「身体的特性を文化的な道具と見なす」に良く対応しているように思われます。
こういうことをつらつら考えるにつけ、パースペクティヴ主義には人文科学上幅広く応用できるポテンシャルがあるように思われ、自然科学における相対性理論のようなエピックな思想であるように感じられます。
んで、ヴィヴェイロス・デ・カストロはそのパースペクティヴ主義の提唱者です。
そういった動機づけで、まずは「インディオの気まぐれな魂」の方を読みました。
絶版本だったので、ネットで古本を取り寄せたのですが、思いっきり傍線やマーカーが引かれており、前の持ち主が勉強熱心であったことをうかがわせました。
この本は薄かったのですぐに読み終えたのですが、残念ながらパースペクティヴ主義についての言及は殆どありませんでした。
ポスモダ(ポスト・モダン)文体なのかカルスタ(カルチュラル・スタディーズ)文体なのか分かりませんが、読みづらかったです……。
なので正確ではないかと思いますが、言わんとすることは以下のようなことだったと思います。
インディオは進んでキリスト教に改宗しながらも、血生臭い復讐や人肉食を続けていた。
宣教師の目からするとまことに気まぐれで、一貫性を欠くように見えたがそうではない。
インディオにはインディオの論理が存在する。
それは復讐や人肉食は他者を取り込んで自己を改変したいという欲求の現れなのである。
キリスト教を進んで受け入れたのも同じく「他者への開かれ」によるものである。
「ホンマか~? インディオをリスペクトしすぎやないか~?!」と思ってしまいますが、そこにはスペイン人がインディオを抑圧しまくった反省も含まれているのかなと思います。
「復讐! 人肉食!!」⇒「他者への開かれ」の変換が若干のパースペクティヴ味を感じなくもないですが、この本では直接の言及は無かったように思います。
で、それでは知識欲が満たされなかったので手に取ったのが「食人の形而上学」
こちらは流通してるので新品をGET!
おどろおどろしいタイトルもそうですが、「インディオの気まぐれな魂」に比べてアングラ方向に悪ノリした本の造りになっています。
元からなのか翻訳がおかしいのか分かりませんが、わざわざ持って回ったような言い回しや衒学的な学術用語に満ちていて「インディオ」に輪をかけて読み辛いです。
横文字の濫用! これがポスモダのアトモスフィアを醸しだす。
「ヘゲモニー」覇権か権威と訳しておけば良くないですか? 「タクソノミー」ロボトミーの友達かと思いましたよ。単に分類法で良いですよね?
これには思わず「ソーカル事件」が頭をよぎります。(ソーカルという意地の悪い物理学者が、難解な科学用語を散りばめたポスト・モダン風の論文(中身はでたらめ)をでっち上げて、現代思想系の学術誌に投稿したらそのまま掲載され、プゲラしたという事件)
結構な大著でまだ5分の1程度しか読み進められていません。
ちょっとどのくらいかかるのか、諦めて本棚の片隅に積まれるハメになるのか分かりませんが、パースペクティヴ主義の妙味を会得したいので「ノエマ」だの「リゾーム」だの、雪崩のごとき謎の用語達をスマホで調べつつ読み進めたいと思います。