フィルム高騰

この頃までかなり忙しく、写真を撮りに出かける機会が無かったのですが、ようやくひと段落つき、秋の行楽に焦点をあわせ始めました。
そこでカメラの準備をしようかと久し振りに新宿に出て、カメラ量販店を覗いてみたのですが、フィルムの値段が高くなっていてビックリしました。

まず普段から使っていた富士フィルムの「ネオパンPRESTO」が払底していてショック。
なんでも6月に販売終了していたとか。
需要の減少が理由だそう。まぁカメラ=デジカメの時代となったので無理もないですが、残念ッッ!

で、コダックから出ている400TXという同等品があるのですが、これが超値上げされていてダブルショック!!
以前は36枚撮りが、定価¥640だったのが、ななななんと、¥1,060に!
ヨドバシの店頭価格でも、¥991でした。
とても手が出ず、結局買わずに店を後にしました。

ああ、天われを滅ぼせり。
フィルムカメラは酔狂な趣味として次第に先細っていく運命なのでしょうか…?

第9回 人形(ヒトガタ)展

今日は秋晴れのいいお天気でした。ちょっと暑いくらいでしたね。
丸善本店で、9月24日から30日の会期で、創作人形の展示即売会「第9回 人形(ヒトガタ)展」が行われているということなので、用事のついでに見てきました。
入場無料なり。

このような素晴らしい催しが既に9回も行われていたとは…。
今回はたまたま知りましたが、これからはもっと頻繁にチェックしよう。

大手町駅から目と鼻の先だというのにかなり迷いました。
う〜む、カッペ丸出しである。

1F入口近くのディスプレイ。
否が応でも期待が高まります。会場は4Fギャラリーです。
30人くらいの作家が参加しているので、各ブースはかなり手狭な感じでした。
それぞれ数体づつ数を絞って出品されてました。

一番印象的だったのは、「玉青」先生の猫の人形
猫なのに人形と呼んでよいか判りませんが。
リアルな造作と、球体関節が凄かった。
特に尻尾まで球体関節で作られていて、玩具の竹蛇を思わせました。

さて今回は即売会なので、人形のリアルなプライスがわかります。
密かに目当てにしていた陽月先生のおドールの値札に目を遣ると、すでにSold outであることを示す赤いシールが貼ってありましたが、シールを透かして確認することが出来ました。
そうですか…、54諭吉ですか。

カズオ・イシグロ

カズオ・イシグロの作品を続けて4冊読んだので、感想を記録しておこうかと思います。

読んだ順番に、
「わたしたちが孤児だったころ(2000年)」
「日の名残り(1989年)」
「浮世の画家(1986年)」
「充たされざる者(1995年)」
です。

寡作なので、あと読んでいないのは処女作の「遠い山なみの光(1982年)」と「わたしを離さないで(2005年)」だけですね。
それから短編集として「夜想曲集:音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」というのも2009年に出ているようです。

カズオ・イシグロに初めてふれたのは、確か、中学校の国語の教科書でだったと思います。
教師が「日本ではあまり知られていないが、海外ではかなり有名」と言っていた記憶があります。
しかしどんな作品だったかはとんと記憶がなく、それから全然触れる機会のないまま長い月日が経ってしまいました。
しかし近所の図書館にまとまって揃っていることに気が付いたので、ひとつ読んでみようかと手に取ったのが、「わたしたちが孤児だったころ」でした。

いちおう探偵物っぽい体裁ですが、内容は純文学系です。
上海での幼少時代の思い出や、養女との関係、つれない女性とのロマンスなどの描写が交互に表れ、次第に切迫した空気になっていくのがスリリングです。
特に最後のほうで、理路整然、流暢に感じていた主人公の語りが矛盾だらけの自己欺瞞に満ちたものだった事に気がついた時には、まるで叙述トリックに嵌ったかのように言葉を失いました。
しかしながら、この「信頼できない語り手」こそ、カズオ・イシグロのお家芸なのです。

二作目に選んだ「日の名残り」は代表作とされていて、ブッカー賞を取り、映画化もされました。
もちろん訳文しか読めませんが、この文章の滑らかさといったら何でしょう…。
そしてイギリスの貴族社会や、執事の仕事に関する実に細やかな描写。
これを日系人が書いたと知った時の世間の驚きはどれほどだったでしょうか?
「ブッカー賞とれたのはアングロサクソン系じゃなかったからだね」と言う本人の弁もむべなるかなです。
やはりこの作品に関してはそちらの驚きの方が大きく、主人公の欺瞞もかつての主人を擁護するもののようにも見え、むしろ天晴な忠義心のように感じました。
まぁ恋愛については唐変木すぎたのかも知れませんが…。

時間を逆に遡っているようですが、三作目に読んだのは「浮世の画家」
これは終戦直後の日本が舞台で、日本人にとってはぐっと親しみやすい。
しかし、ちょっと変なところもあり、やはりこの人中身は英国人なんだなと感じさせられます。
この本は地味だと思いますが、それだけにカズオ・イシグロが追い求めているテーマがはっきりと見えるように思います。
多分この主人公を好きだと感じる人はいないでしょう。
彼の語りは虚栄心、頑固さ、過去の栄光への執着、言い訳で満ちているからです。
なので如何に自分の都合の悪い点に触れていないかがよく判ります。
それこそ、無意識の内に記憶を取捨選択し、自分の都合の良いように再構築すること=「自己欺瞞」なのです。

思えば、この順番で読んだことが四作目の「充たされざる者」への良い助走になりました。
何と言っても、ふつうの文庫本のゆうに三倍はあるかと思われる厚さに挑戦するためには、ある程度の備えが必要なはずです。
文庫本で900ページもあり、通勤時に読むのが苦痛な程でした。ではなぜ分冊しなかったのか?
この長大な作品は、それでいて実はたった三日間の話で、しかも日ごとに章に分かれています。
分冊するのにおあつらえ向きじゃないか、とも思えますが、読めばきっとここで切れない事に気が付くと思います。
切るにはあまりにもフワフワしてるからです。
そんな事はしたことがないですが、上・中・下と三分冊されている作品(「カラマーゾフの兄弟」とか「アンナ・カレーニナ」とか)の「中」だけ読んだとしても、それなりの歯応えを覚えるでしょうが、「充たされざる者」の二日目だけを読んでも全く雲を掴むような感触で意味をなさないと思います。

非常にシュールな作風で、世界的なピアニストの主人公がとある街の音楽会で演奏をするという筋なのですが、時間、場所ともに曖昧。
何か重大な事らしいとのほのめかしはあるものの、演奏会の目的も謎です。
登場人物たちは、小野(「浮世の画家」の語り手)に輪をかけたような、慇懃ながら自分の事しか考えてない嫌な連中ばかりです。
これまで自己欺瞞は主人公の中だけの話でしたが、それが地雷のように街中にバラ撒かれたかのようで、ライダー(主人公)は彼らとの関係に絡め取られて四苦八苦します。
そのあまりのしつこさ、嫌らしさに、逆にコントを見ているようで面白くなり、ついつい笑ってしまいました。
と言うか、そもそも本作はそういう「電波小説」として読むのが正しいのかも。
家族を(できれば世界も)もう一度、幸せだった頃の状態に再構築しようと奮闘するところに電波チックな言動が表出するのです。
そしてその試みが失敗に終わるから「充たされざる者」なのかな、と酔った頭で愚考します。

紛うことなき問題作だと思いますが、私的にはその突き抜けたウザったさには、むしろファンキーな粘りを感じ、感銘を受けました。
カズオ・イシグロの作家としてのスケールの大きさを示す作品でもあったかと思います。
こういう系統の本、他にもあったら読んでみたいですね。
多分、「わたしを離さないで」は違いますよね。

ハイランドパーク12年

やまや銀座店でハイランドパーク12年を購入。
ミニチュアボトルのコブ付き。
税込み¥3,300也
銀座だからといって特別高いということはありませんでした。

ボウモア、タリスカーに続くシングルモルト第三弾です。
う〜ん、この価格帯で買えるのもそんなに無くなってきました。
上は天井知らずだし。
最近円安が進んでいますが、洋酒党にとっては嬉しくない。
円高よもう一度。

色は紅茶っぽいゴールドですね。
ちなみにこのグラスはテイスティング用とかではなく、ダイソーで100円で買ったワイングラスです。

香りはスコッチの平均からするとある方なのでしょうが、ラフロイグとかボウモアとかアイラモルト系の強いのに比べると大人しいです。
わたしにはチョコレートの香りに感じました。
ストレートで口に含むと、シェリー樽、ハチミツの甘さがあり、ボウモアに似てると思いましたが、こちらも控えめな印象です。
パンのような香りもかすかに感じました。
とにかく滑らかで、角の無い味です。
後味もサッパリ。

正露丸系のボウモア、舌がピリピリするタリスカーと、個性的なのを飲んできたので、ハイランドパークのやや優等生的なまとまりは詰まらなく感じなくもない…。
しかしボトル一本飲み切ってみないことには判りません。
秋の夜長にがっぷり取り組んでみます。(肝臓が悲鳴をあげない程度に)