最近は大岡昇平の小説を読んでいます。
「野火」から入って、「武蔵野夫人」と読み進み、ついこないだ「俘虜記」を読み終わったところです。
野火は面白かったです。逆に武蔵野夫人は野火を読んで期待が大きかった分、イマイチの感触を拭えませんでした。
俘虜記はノンフィクションだそうなので、ちょっと違った評価をしなくてはならないかも知れません。この捕まるまでの体験を煮詰めて、小説の型に流し込んだのが野火かなぁ、と思います。しかしその事細かな描写と記憶力はすごい。
大岡昇平の文章は生真面目で、内省的です。ねっとり系というか、クチャクチャと出来事を反芻する文です。自身の内面へ内面へと思索を深めていく様は、厳しい観察態度に感心させられますが、正直読んでいて疲れます。
俘虜記の最初の方で、撃てる場所にいた敵兵を狙撃しなかったことについて、博愛主義、キリスト教的倫理感、エゴイズム、単なる偶然…等々、ああでもないこうでもないと色々と検討するのですが、執拗な議論に読んでる方が途中で投げ出したくなるほどです。
まあそれでも戦争ならば内省的になるのもわかりますが、武蔵野夫人みたく不倫でそれをやられると「もう勝手にしてくださいよ」とも言いたくなります。
加えてスタンダールやジッドなどという衒学がちょっと鼻につきます。大岡昇平はもちろんインテリですし、その分身であるところの野火の主人公もインテリです。そのインテリ男が、土地の民間人をうっかり撃ち殺してしまったり、狡猾な同輩に手榴弾を騙し取られり、イヤな元上官の懇願を断りきれずに看病する羽目になったりします。
上のようなシーンを読むたび唾を吐きたいような気分になりました。フランス文学の教養や複雑な思索を操る立派な頭に比べて、現実がこれでは情けな過ぎるではないですか。
しかしながら戦争というハードな舞台においては、観念は必ず現実に裏切られることを強調したかったのでしょう。
野火の最後で主人公は発狂します。分裂症です。
頭の方を肉体の事情に合わせて、人肉食を受け入れていれば、きっと狂わなかったでしょう。しかしそれを退けたので狂ってしまいました。でも彼の所有権を観念と現実とが争って、最後に前者が勝ったのです。それで巻末の数行は、わたしには輝いて見えます。