民俗学者の小松和彦の著書を二冊ほど読みました。
「異人論」と「神隠しと日本人」です。
「異人論」のほうは、85年に出版されたもの。そのせいか、作者近影が若く、かなりイケメンです。
内容は論文集で、「異人殺し」というものが中心のテーマとなっています。
論文集なので、固い内容もあり、よく分からない部分は一部飛ばし読みしました。
「異人殺し」の典型的な例とはこういうものです。
『ある家に山伏が訪ねてきて一晩の宿を乞うた。主は山伏を泊めてあげることにした。
ところが山伏が非常な大金を持っていることに気がつき、欲に目がくらんで、寝込みを襲って殺してしまった。
そのお金を元にして彼の家はたいへん栄えるようになった。
しかしなかなか跡継ぎが得られなかった。これは山伏の呪いであると考え、祠を建てて鎮撫した。
お陰で跡取りが得られた。彼の家は長者の家系となった。
しかし後代の子孫が祭事を怠るようになり、祠を毀ったので、さまざまな災厄が振りかかるようになった。
そのためについにその家は途絶えてしまった』
このような例をいくつも挙げて、さまざまな角度から検証を加えていくというスタイルです。
興味深いのは、異人殺しが実際には行われていなかったにも関わらず、このような伝承がまことしやかに伝えられている例があることです。
小松先生の導き出した結論はなかなか刺激的です。
こういう伝承が村の中のジェラシーを吸収する装置になっていたのだというのです。
つまり、隣家の繁栄はとても妬ましい。ウチと何が違うのか? そうだその富は大変な不正のもとに生み出されたに違いない。ウチは貧しいが決してそんな真似はしない———。
あるいは名家が急に没落してしまった場合、(実際にはありもしない)異人殺し譚を設定することで受け入れやすくすることができます。
供養を充分に行わなかったために祟りを受けたのだと。
逆に考えると、フィクションを設定しなければならないほど、昔の人々にとっては、特に理由もなく富んだり、あるいは貧しくなることが受け入れがたい事実であったということのようです。
現在の感覚だと、そっちのほうがよっぽど奇妙に映りますが。
「神隠しと日本人」のほうは、年代も下りもっとくだけているのでずっと読みやすいです。
こちらも「神隠し」の実態と、その機能について詳細な分析が行われています。
それによって「神隠し」が“事実”をくるむオブラートととして機能していたことが明らかにされます。
つまり、実際には誘拐されたり、殺されてしまったりしたであろう人たちにたいして「神隠しにあった」と言うことで、微かな生の期待を繋ぎ、残された人たちへのダメージを軽くすることができた。
あるいは、個人的な理由で出奔してしまった人たちに対しても、「神隠しにあった」と言えば不問になったということです。
神隠しとはまことに曖昧なものですが、このように包むような優しさがあったのです。
すべてを社会の内部の因果関係の中で理解しようとする現代では、起こり得ないことがわかります。
ところで、浦島太郎までを神隠しの例に引いているのを見て思ったのですが、現代の浦島太郎と言える「ひきこもり」も、当時であれば「神隠し」と言われたでしょうか?
そうであれば、現代の異界はまさに家庭のなかにあるといえます。
浦島太郎が遊んだ竜宮は、今ではインターネットやオンラインゲームがそうなのかも知れませんね。