月別アーカイブ: 2010年2月
二月のリカー
胃潰瘍はアルコールで消毒するに限ります。
もちろん冗談です。
二月の間に購入したアルコール類を紹介します。
まずバーボンがなくなったので、「ローワンズクリーク」を手に入れました。
お腹に巻かれたアミが、「あたしゃプレミアムバーボンだわよ」と主張しているようです。
こういうギミックは味とは関係ないと軽視する向きもあるでしょうが、わたしにはアルコールには欠くことの出来ない要素のように思われます。
バーボンに限らずですが、革袋に包んでみたり、陶器のボトルだったり、木箱の中に入れてみたりと、嗜好品に最大限の付加価値を持たすべくメーカーはあれこれ手を尽くします。
それがアルコール体験を、単に舌の上だけのもの以上にしているのです。
だれか高名なジャズの評論家が、「ジャズとは雰囲気一発の音楽」と言っていましたが、お酒にもそのまま当てはまりそうな言葉です。
とはいえマズければいかに取り繕ったところで意味がない。
では「ローワン」はどうかと言うと、甘い口当たりでクリーンな味です。そして後味はさっぱりしています。
よく言えば雑味がない、悪く言うと没個性というところですか。
決して悪くはないのですが、ふたたび手に取るかは微妙なところですね。
その点、クリークはクリークでも前回の「ノブクリーク」は、味は苦みがあってちょっと苦手でしたが、香りが豊かで個性がありました。
ソーダ割りにするとおそろしく美味かったです。こっちはまた飲んでみたいと思えるバーボンでした。
それから、ロシア産ウォッカの「ストリチナヤ」です。
久しぶりにブラッディマリーを作りたくなったので。
ブラッディマリーはウォッカをトマトジュースで割ったカクテルです。
わたしはそこにタバスコを振ったり、コショウをかけたりして、チリにして飲むのが好みです。
あまりたくさんは要らないので500mlの瓶にしました。
冷凍庫でキンキンに冷やしてストレートで飲んでもおいしいです。
最後に今日買った「スーズ」
ゲンチアナというリンドウ科の植物の根を浸漬して作られるリキュールです。
色は鮮やかな黄色で、爽やかな苦味があります。
と言うよりズバリ、ユンケル系の栄養ドリンクの味と言ってしまった方が分かりやすいと思います。
グラスに注いだ瞬間から思ったことなのですが、この色といい、匂いといい、そのものです。
効用にも健胃、消化促進が謳われています。
わたしはかなり気に入りました。
トニックウォーターで割って飲むみたいですが、そのまま飲んでもいけます。
同じハーブ系ならカンパリよりも好きですね。
胃潰瘍
春一番が吹き、春めいてまいりましたね。
しかしわたしの体調は下り坂で、今週はぴりっとしませんでした。
症状は腹痛。
みぞおちのあたりにゴロゴロとした痛みを感じ、吐き気を覚える時もありました。
特に空腹時がつらかったです。
金曜日、退社後に内科を訪れ、診てもらうと「胃潰瘍」とのことでした。
注射を打ってもらい、胃酸を抑える薬と胃の粘膜を保護する薬をもらって帰りました。
薬が効いたのか、今日はだいぶ楽になりました。ただまだ本調子には程遠いですが。
原因には思い当たることがあります。
小松和彦
民俗学者の小松和彦の著書を二冊ほど読みました。
「異人論」と「神隠しと日本人」です。
「異人論」のほうは、85年に出版されたもの。そのせいか、作者近影が若く、かなりイケメンです。
内容は論文集で、「異人殺し」というものが中心のテーマとなっています。
論文集なので、固い内容もあり、よく分からない部分は一部飛ばし読みしました。
「異人殺し」の典型的な例とはこういうものです。
『ある家に山伏が訪ねてきて一晩の宿を乞うた。主は山伏を泊めてあげることにした。
ところが山伏が非常な大金を持っていることに気がつき、欲に目がくらんで、寝込みを襲って殺してしまった。
そのお金を元にして彼の家はたいへん栄えるようになった。
しかしなかなか跡継ぎが得られなかった。これは山伏の呪いであると考え、祠を建てて鎮撫した。
お陰で跡取りが得られた。彼の家は長者の家系となった。
しかし後代の子孫が祭事を怠るようになり、祠を毀ったので、さまざまな災厄が振りかかるようになった。
そのためについにその家は途絶えてしまった』
このような例をいくつも挙げて、さまざまな角度から検証を加えていくというスタイルです。
興味深いのは、異人殺しが実際には行われていなかったにも関わらず、このような伝承がまことしやかに伝えられている例があることです。
小松先生の導き出した結論はなかなか刺激的です。
こういう伝承が村の中のジェラシーを吸収する装置になっていたのだというのです。
つまり、隣家の繁栄はとても妬ましい。ウチと何が違うのか? そうだその富は大変な不正のもとに生み出されたに違いない。ウチは貧しいが決してそんな真似はしない———。
あるいは名家が急に没落してしまった場合、(実際にはありもしない)異人殺し譚を設定することで受け入れやすくすることができます。
供養を充分に行わなかったために祟りを受けたのだと。
逆に考えると、フィクションを設定しなければならないほど、昔の人々にとっては、特に理由もなく富んだり、あるいは貧しくなることが受け入れがたい事実であったということのようです。
現在の感覚だと、そっちのほうがよっぽど奇妙に映りますが。
「神隠しと日本人」のほうは、年代も下りもっとくだけているのでずっと読みやすいです。
こちらも「神隠し」の実態と、その機能について詳細な分析が行われています。
それによって「神隠し」が“事実”をくるむオブラートととして機能していたことが明らかにされます。
つまり、実際には誘拐されたり、殺されてしまったりしたであろう人たちにたいして「神隠しにあった」と言うことで、微かな生の期待を繋ぎ、残された人たちへのダメージを軽くすることができた。
あるいは、個人的な理由で出奔してしまった人たちに対しても、「神隠しにあった」と言えば不問になったということです。
神隠しとはまことに曖昧なものですが、このように包むような優しさがあったのです。
すべてを社会の内部の因果関係の中で理解しようとする現代では、起こり得ないことがわかります。
ところで、浦島太郎までを神隠しの例に引いているのを見て思ったのですが、現代の浦島太郎と言える「ひきこもり」も、当時であれば「神隠し」と言われたでしょうか?
そうであれば、現代の異界はまさに家庭のなかにあるといえます。
浦島太郎が遊んだ竜宮は、今ではインターネットやオンラインゲームがそうなのかも知れませんね。
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日本写真集史
紀伊国屋で面白そうな本を見つけたので、買ってきました。
「日本写真集史 1956‐1986(金子隆一、アイヴァン・ヴァルタニアン/赤々舎)」です。B4判のかなり大きい本です。
著名な写真研究家である金子隆一のコレクションのなかから、時代を代表する作品をセレクトして載せています。
土門拳であるとか、荒木経惟、篠山紀信といったビッグネームのもそうなのですが、なかにはそれほど有名ではない作家の私家版なども掲載されておりユニークです。
また非常に独特なのが、写真集をそのものを見開きで撮影し、レイアウトしている点でしょう。
写真集の「モノ」としての側面を強調しているようで、所有欲がそそられます。
つまり「写真史」ではなく、あくまで「写真集史」であるということのようです。
この本に、今まで知らなかった素晴らしい作家の存在を教えられました。
何名かの作品を引用させて頂こうかと思います。
まずは杉野安の「心触風景」(1970)
杉野安はアマチュア写真家で、今も昔もまったく無名の人物のようです。
そしてこの写真集も自費出版で出されたものです。
被写体となっているのは、軒に干されたツナギだとか、モップが這った跡の床だとか、ごくありふれた詰まらないものです。人物はひとりも登場しません。
しかしながら、その黒はとても深くて美しい。フォルムではなくトーンが見る者の胸を打つのです。
まるで、日没の風景のように心に触れてきます。
次は、石内都の「APARTMENT」(1978)
う〜ん、なんというアイディアでしょう。小汚いアパートで一冊本を出す。
ひび割れ、シミ付き、塗装が剥げかかった壁は、有機体のような生々しさを醸し出しています。
共有炊事場とか、薄暗い廊下、そしてその突き当たりに置かれた赤電話などが強烈なノスタルジーを発し、「めぞん一刻」な世界を醸し出しています。
しかし、いかなこの当時でもさすがにこれは「ありえない」風景だったでしょう。
そんな最後の鈍色の光を焼き付けた作品です。
森永純 「河‐累影」(1978)
水、というより粘り気を帯びたタールのような東京の河を撮った作品です。
ある水面には折れた傘が浮き、あるものにはニワトリの足が突き出しています。
泡とも藻とも判別し難い無数の白い点が川面を覆って、滑やかな爬虫類の表皮のように見える写真もあります。
当時の環境汚染のレベルがここまで酷かった———、のではなく、意図的にゴミを沈めて演出をしていたそうです。それが、見る者の想像を掻き立てるような混沌とした画面を作り出しています。
わたしには水面を通して、危険ではあるが生命力に満ちた都市の生活を暗示しているように思えました。
深瀬昌久 「鴉」(1986)
タイトル通り、カラスを撮った作品です。
これは凄い。見ていて震えました。いくつもの決定的瞬間が納められています。
作家は風をカメラに収めています。
一瞬前にカラスが切り裂いていった風、女生徒の髪を激しくなぶっていった風、そして解体現場の爆風を。
しかし、「鴉」というタイトルには単に被写体を指したという以上の含みを覚えます。
カラスを撮る行為自体が正常な精神状態を逸脱した感じをもたらし、見るものに漠然とした不安を与えるのです。
作家の暗い将来を暗示しているようにさえ思えます。
1992年に階段から落ちて脳挫傷を負い、以後活動はなさっていないそうです。