黄金を抱いて翔べ

 久しぶりに高村薫の本を読みました。前回読んだのは十年以上も前の「マークスの山」になります。ただ当時から、すごい重厚な文章だなという印象は持っていました。
 この「黄金を抱いて翔べ」はデビュー作だそうですが、容赦のない超精密な描写に打ちのめされます。
 「大通りから数ブロック離れた豚骨ラーメンの匂いがする通り」とか、「白っぽい箱から出た赤っぽいコード」とかいう曖昧な表現は一切なく、すべてを言葉で説明尽くそうとする気迫を感じました。
 作家とはここまでしなければいけないものなのかと頭が下がります。と同時に、高村薫はデビュー当時から高村薫であったということに感銘を覚えました。
 
 ただ、物語の展開自体はけっこう単調です。とちゅう暴走族と揉めたり、左翼と揉めたり、北の工作員と揉めたりするのですが、それ自体が金塊強奪を阻むものではない。
 幸田と神父の関係がこの作品の最大のミステリーだと思うのですが、それもあまり消化されないままだったような気がします。
 それよりいつの間にかモモとのことのほうが大切になってしまった感じ。こっちのほうも「えぇそういうことになってたの?!」ですが。
 
 読後の感想は、「すごいんだけど、なんか疲れた」
 体力に自信のあるときに、別の作品にもトライしてみたいです。

鎌倉街道夢紀行

 わたしが大学生の時分に、ローカル局で「鎌倉街道夢紀行」という十五分番組が放送されていました。
 ピアニスト村松健が、鎌倉街道を歩いてたどり、旧跡を紹介するという番組です。
 ただなんとなく観ていただけなのですが、(当時の)近所が映ったりして、かなり楽しみにしてはいました。
 特に、村松健の手がけたBGMが素晴らしく、それが魅力の半分ほどを占めていたと言っても過言ではありませんでした。
 CDは後に手に入れました。
 
 今日、ふと図書館にて本棚を眺めていたら、たまたまこのタイトルが目に入いり、懐かしさの余り手に取ってしまいました。
 パラパラとめくると、懐かしい風景が目に飛び込んで来て、当時のことがしみじみと思い出されました。
 
 この頃ホームシック気味なので、この本を読んで癒されようかと思います。

痴人の愛

 一読してまずこう思います。
 「アホやなぁ……」
 いやしかしこれは、かの有名な谷崎潤一郎の作品、どこかに非常に深遠な問いかけや、高尚な苦悩が描かれているに違いないと思い直し、さらに読み進めます。
 「アホやなぁ……」
 おなじため息が出ました。
 そうです。この作品では主人公、譲治のアホさが金太郎飴のように全面に渡って展開されているのです。
 うんざりすると訴えたからと言って、黙って表題を指し示されるのみでしょう。
 
 しかしこの本の壮大なトリックは、モノローグとして語られる、その形式にあります。そして最後の一文で引っ掛けに気付かされるのです。
 この本を評して、「妖婦に取り憑かれた男の破滅の物語」とかよく言われますが、全然そんなことはありません。
 これは「のろけ」です。

朝霧

 円紫シリーズ最後の作品です。
 わたしはこのシリーズが大好きだったので、これで終わりかと思うと読むのがなんとなく勿体無いような気持ちでした。
 
 内容は別にして、妙に頷かされたのが、今まで一冊で一年ずつ進級していた「私」が、この本で就職をして一気に何年も年を重ねることです。
 たしかに、就職をするとイベントが減って時間の経過が早く感じられますよね。そのコントラストがリアルだと感じました。
 
 さて内容ですが、ミステリーとしてはどうなんでしょうかね……。
 ここまで読んできたわたしにはキャラクターに愛着が湧いてきているので、彼女たちが何をやっても面白いのですが、この本からはじめて読んだ人にとっては「なんじゃこりゃ」ではないでしょうか?
 この「なんじゃこりゃ」は今に始まったことではなく、前々作の「秋の花」から微かに臭いはじめ、前作の「六の宮の姫君」ではとんでもないところにすっとんでいったのですが、本作でも引きずってしまっているようです。
 三篇構成になり、原点回帰のような雰囲気をみせてはいるのですが、巻末の解説でも言われている通り、「教養小説」になってしまって、初期の単純な謎解きの面白さから遠ざかってしまっているように感じました。
 
 それでは、一作品目の「空飛ぶ馬」と、二作目の「夜の蝉」だけを読むようにひとに勧めるべきでしょうか?
 でもわたしの忠告はきっと破られるでしょうね。だってそれだけ魅力的な文体とキャラクターたちなんですから。

庄内川

 庄内川
 2009年八月三十日
 
 ようやく、重い腰を上げ写真を撮りに行く気になりました。
 まあ、リハビリといったところです。